(Remedios Varo)デジャービュな“つづれ織り”なのです。

メキシコ・シティに行ったとき、二人はどうしたはずみか、スペインから亡命してきた美しいレメディオス・バロの絵画展にさまよいこんだ。ある三部作の中央の、「大地のマントを織りつむぐ」と題された画のなかにはハート型の顔、大きな目、キラキラした金糸の髪の、きゃしゃな乙女たちがたくさんいて、円塔の最上階の部屋に囚われ、一種のつづれ織りを織っている。そのつづれ織りは横に細長く切り開かれた窓から虚空にこぼれ出て、その虚空を満たそうと叶わぬ努力をしているのだ。それというのも、ほかのあらゆる建物、生きもの、あらゆる波、船、森など、地上のあらゆるものがこのつづれ織りのなかに織り出されていて、そのつづれ織りが世界なのである。エディパは意固地になってこの画の前に立ち尽くして泣いた。だれもそれに気づかない。エディパはダーク・グリーンの円形サングラスをかけていた。一瞬、眼窩のまわりがピッタリふさがっていて、涙はひたすらに流れ出し、レンズと眼のあいだの空間を満たし、乾くことがなくなるのではないかと思った。そんな風にして、この瞬間の哀しみを永久に抱きつづけることができるのではないか、世界を、この涙をとおして屈折して見ることができるのではないか、この独自な涙が、まるで未発見の屈折率のように働いて、重要な面で、泣くときどきの場に応じて変化していくのではないか、と思った。

  • トマス・ピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』の見返し見開きに、バロの『大地のマントを織りつむぐ』が折り綴で挿画されている。ひょんなことから、バロについて、“葉っぱがアフォード・阿呆ダンス”で取り上げたのですが、この絵も又、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』の表紙でお馴染なのに、バロの絵はまだ、実物を拝見していないのです。言葉をとおして、この絵を読むべく引用してみたが、ピンチョンのパラグラフは驚異的に長い。上記引用を段落から始めると、倍になります。段落なしに続いて…、

いま立っているところは単に織り合わせられたもの、自分の住んでいる塔から発して、二千マイルつづいているものに過ぎない、まったく偶然にそれがメキシコというところで、つまりピアスは自分をどこからも連れ出してきているのではない、どこにも逃げ出せるところなどないのだ、と。そのような囚われの乙女は、考える時間がたっぷりあるから、まもなく、自分のいる塔が、その高さも、建築様式も、自分のエゴと同じく偶然のものに過ぎないと知る。自分をこの場所に引きとめておくものは魔法、無名の、悪意ある者の魔法で、外から理由もなく襲ってきたものだと知る。臓腑に感じてしまう恐怖心と女性独自の狡猾さ以外に、この、形を成さない魔法を吟味し、その働きのぐあいを理解し、その磁場の強さを測定し、その力の方向を調べる、そんな装置をもっていないとすれば、エディバは迷信に頼るか、刺繍のような実用的な趣味を身につけるか、気違いになるか、ディスク・ジョッキーと結婚するか、ということになる。塔がいたるところに延び、解放してくれるはずの騎士に魔法を解いてくれるという証拠がない以上、ほかにどうしたらよいというのか?―『競売ナンバー49の叫び』(筑摩書房)p22~23より―

  • この絵は、ず〜と、昔から見慣れている気がします。