ジャック・デリダ(1930−2004)

 昨日、ジャック・デリダの訃報をきいたが、デリダと言えば、『脱構築』で、主著に『グラマトロジー』、『エクリチュールと差異』などで、少なくとも哲学学徒には必読書と思いますが、ジャンルを超えて、読み散らす摘み食いの無作法なぼくにしても、デリダの名は二、三日に一度は目にする。そうかといって、まっとうに読んだ原著はあるのかと、訊かれれば、うなだれてしまう。日本の現代思想を支える人たち、例えば、東浩紀にしても『存在論的、郵便的』でジャック・デリダについて書いているのですが、それさえ、ぱ〜と、目を通してだけであって、内容紹介すら、おぼつかない。そんなぼくにでも、スケッチ風に橋爪大三郎の『はじめての構造主義』(講談社現代新書)がデリダの素描をしているのですが、なんとなく、イメージを捉まえることが出来る。荒っぽいものなのですが、引用してみます。

問題は、主体(人間)と言語の関係である。フッサールは、人間を主体として世界の中心におき、言語は主体の自由になる、みたいに思っていた。パロール(話言葉)中心に考えるから、そういうことになる。しかしそれは、ちがうので、エクリチュール(書き言葉)のことを考えてごらん。エクリチュールには、主体の自由にならない〓物質性〓があって、主体の目のとどかないところでも、壊れないで存在している。

 橋爪さんは構造主義のレヴイ=ストロースに対するデリダの批判を紹介しながら、ポスト構造主義の人々が、レヴイ=ストロースや構造主義はもうだめだ、といろいろ言うので、それしか読まないで、そんなもんかなあ、とあっさり思ってしまう人が最近多くて、心配だからだと、レヴィ=ストロースとの繋がりを強調しており、彼の批判原理(反自民族中心主義)そのものにしても、レヴィ=ストロースから教えてもらったもので、デリダの本領は、構造主義の刺激を存分に吸収して、哲学に新たな展開をみせたところにある、とする。その新たな展開をポスト構造主義というのであろう。まあ、デリダが「はじめての構造主義」で、ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ、…とうあたりになると、益々ポスト度が高くなって、最初の閾を越えてしまっているということなんでしょう。彼は政治的発言も積極的にして、ブッシュ政権の「対テロ戦争」を批判するアピールを出していましたが、享年74歳なのです。ディコンストラクション、グラマトロジー、う〜ん、勉強しなくては…合掌。
友愛のポリティックス Iマルクスと息子たちアポリア―死す 「真理の諸限界」を“で/相”待‐期する20世紀の思想―マルクスからデリダへ (PHP新書)盲者の記憶―自画像およびその他の廃墟