植島啓司/ラブマシーン・宗教学者

先日、天満宮の古本市で、植島啓司の『分裂病者のダンスパーティ』を見つけた。版元のリブロポートは廃業したし、中々手に入れるのは難しいが、2500円で売っていた。(ネットで検索したら、これ以下の値段で、まだ、購入できるみたい。失礼)ぼくは5、6年前に800円で古本購入していたのですが、奇書といってもよい贅沢な本です。哲学的断章、映画評、そして、全体として物語りめいたものが進行して、SMっちくなボンデージの写真がふんだんにある。宗教学者であり、馬が大好きで、論文を競馬場で書いてしまう教授は、ロラン・バルトの『恋愛のディスクール』をもじった小説『恋愛のディスクール』を書いたりもする。『男が女になる病気』以来、愛読していたのですが、最近は、読んでいませんね。多分、そんなエロチシズムに感応しなくなったのです。本書の序文は澁澤龍彦が書いており、女性軍から顰蹙を買うかもしれませんが、そっくり引用します。

私はポルノグラフィーが大好きだ。ポルノグラフィーの世界では、そこに登場する人物はことごとく物にされてしまう。これほど平等な世界はあるまい。しかるに、おろかなフェミニズムの闘士はしばしば次のように断言してはばからない。すなわち、「ポルノグラフィーは女を物として扱うから差別的であり非人間的である」と。これほど次元の低い、これほど見当ちがいな意見もないだろう。みずからすすんで客体になることが、どれほどの自由を消尽せしめる行為であるかは、多少なりともエロチィックの機微を知ったものには自明の理だからだ。/むろん、私たちは、物になる自由、客体になる自由を女だけに楽しませておくわけにはいかない。生まれたときからペニスというオブジェを玩弄することを知っている私たち男性は、ともすると女性より以上にみずからをオブジェ化することに長じているはずだ。かって十五世紀のピコ・デッラ・ミランドラは、あらゆるものに変貌しうるカメレオンにも比すべき人間の性質を賛美したが、私もピコの驥尾に付して、二十世紀の世紀末における人間のオブジェ化を、世界を変容させるゲームの一つとして推奨したい。この本の著者もいうように、人間はまさしく愛の機械なのである。/行為がつねに視線を必要としているような世界、それがポルノグラフィーの世界であるとすれば、それはかならずや、すぐれて知的な操作を陰に陽に随伴するだろう。四人の男女のポルノグラフィックな記述を中心として、その周辺に哲学的な思考の断片をカレイドスコープのように乱反射させながら進行する植島啓司氏の奇妙な作品『分裂病者のダンスパーティ』は、あたかもレオナルドの考案した八角形の鏡張りの部屋に似ている。四人の男女のパーティは鏡の間で行われる。鏡とは、この場合、現実の行為を対象化する認識のはたらきそのものの隠喩だと思っていただきたい。小説でも評論でもエッセイでもなく、また同時にそれらのすべてでもあるというところが、この作品のなんとも憎いところではないかと私は思うが、どうだろうか。/著者は書いている。「本書はトランプのごとく四種類、五十二枚のカードから成る。第一に、四人の男女の不思議なパーティ、第二に、ある分裂病者の妄想、第三に、さまざまな引用からなる断章、第四に、性的逸脱をめぐる議論である」と。/私は、この五十二枚のカードをばらばらにして、よくシャッフルして、もう一度、任意にならべ変えてみたいような誘惑にかられる。そこにどんな世界の変容があらわれるだろうか。いや、その期待はすでに著者自身が本書の末尾に書いている、「ふたたびまったく異なる一日がはじまろうとしているのだ」と。/あらずもがなの私の序文は、さしずめ五十三枚目のカード、すなわちジョーカーのようなカードの一枚だと思っていただきたい。

#『恋愛のディスクール』