武田徹/後藤明生

武田徹さんのブログ(10/18)を覗くと、女子大学での、授業風景をぼやいている。最近読んだ、後藤明生の『日本近代文学との戦い』でも、大学の授業中での学生たちの振る舞いに作家は始終、苛立つが、デリカシーに富んだ作家教授は大声で注意も出来ない。繊細な武田さんが“説教おじさん”になれないキャラを持っていることはよく判る。教室が、学生達の情報交換の場になっているのです。携帯も気になる。

…もっときちんと学習意欲のある学生だけ入試で選抜して採って欲しいが、そんなこと言ってられないのがこの手の大学の現状なのだろう。この後もこんな学生に教え続けると思うとめげる。結局、大学生だからなんて思わずに、子供扱いして叱らないと、いけないのか。「授業中は私語を慎むようになんて偉そうにお説教するのは自分のキャラと似合わないので気が引けるが、実際、彼女たちは体つきだけは大人っぽいけれど、たぶんきちんと教育を受けた経験がないまま育ってしまったのだろう。その意味ではまっとうな教育の機会を与えられてこなかった不幸な生い立ちとも言える。百歩譲ってその場で叱ることは出来ても、長く蓄積してきたそんな教育の機会の不在まで是正するのは、非常勤のヒトコマぐらいでは全然役不足だ。斎藤貴男さんが指摘してきた教育の機会不平等は、着実にこんな結果を導いたのだと実感して、やれやれと思わずため息をついてしまう。たとえば短大を四大に変える動きがあるが、むしろ逆で、四大を専門学校にしてしまう方がいいのではないか。抽象的な思考力の必要がある授業についてくる力はおよそない学生でも、興味のある実技教育なら耐えられるかも知れないので。専門学校でもっとプライドを持って学べるようにし、専門卒の就職状況を改善できればよほど日本の未来のためになると思う。―武田徹ブログより―

ぼくのキャラなら、声高に注意するが、怒ると授業評価はマイナスに作用するらしい。
先日、映画館で、同じ並びのおばさんが、携帯の青いダイオードの光を発したまま、映画鑑賞をしているので、目障りですと注意しました。あとで、考えると、映画評論家か、その周辺の人かもしれませんね、金井美恵子の小説『文章教室』で大学教員の映画評論家が登場するのですが、映画を観るときは必ず、ペンライトと、京大式カードを持参して、スクリーンと手元を交互に行ったり来たりしながら、映画の鑑賞をする。あのおばさんも、親指操作しながら、映画鑑賞をしていたのかもしれない。映画はアメリカ元国防長官マクナマラのドキュメンタリーだったから、でも、やっぱ、周りの人は気になり、映画鑑賞の妨げになります。
先日、友人と中之島公園のベンチで駄弁っていたら、女子大生が眠りこけたホームレスを盗撮していたので、手招きして、ぼくの友人は優しく説教しました。彼は僕と違って、この手の振る舞いは上手なのです。「撮影するときは、一様、声をかけて撮らせてくださいと、挨拶しなくては…」、女の子は素直に反応して、それから、小一時間ほど、色々と話し込みました。彼女達はかようなことを注意なり、説教なり、教育される機会に遭遇しなかったと言える。ちょいと、こんなことは昨日、山寺の掲示板にもアップしましたので、そちらを参照して下さい。偶然にもこの女子大生は後藤明生が教えていた大学の文藝学部で、日本文学科でした。そうか、後藤先生はかような女子大生を相手に講義していたのだと、改めて納得しました。