空間が震える

FMで音楽を聴きながら、衣替えのために、整理をしていると、突然、放送が中断され、長岡で震度6弱の余震があったと報道される。物の倒れる音がする。一瞬、眩暈の感覚に襲われました。
このところ、時々、歩いていると段差に躓く回数が増えました。空間が少し歪んでいるのかな、方角もうっかりすると、全然違った路地裏を曲がっている。そんな騙し絵に迷い込んだ感覚は、そんなに嫌ではない、結構楽しんでいる。見知らぬ場所でも地図で確認するのは、最後の切羽詰ったときで、人に尋ね尋ねする。でも、視線は足元なんぞ、見ないから、おっととと…、とつまずくことが多くなったのです。壮年期頃までは、見なくとも足のセンサーが働いて、足の感度でスムーズに歩いていました。それが、可笑しくなり始めている。やばいかな、空間の歪みは解体へと、溶解へと、時間を溶かすのでしょうか。

/その時、遠近や方角をふくんだ物音が、木の葉や雨の降り出しの音が家の内まで伝わってくれば、空間は一度に回復されるかもしれない。壮年の場合でも音で人心地がついて、あたりを見まわし、いましがたまで自分の居場所を見失いかけていたことに気がつくことはある。視覚の現実は聴覚によっても支えられる。人の声ならなおさらよい。尊いように聞こえることだろう。それこそ地獄に仏である。仏とはそんなものだ。だから、ありがたい。しかしいまどき、地面から離れた住まいが大半である。伝わるのもたいてい機械から発する音で、遠近も方角も孕まない。人の声も、現心を取り戻す助けとなるには、とかく奥行きがなさすぎる。響きにも乏しい。響きとは声の内にひろがる、また声が外へひろげる、空間の謂でもある。/無音同然の中にあって、見慣れた家の間取りが正面にひらいたきり戻らない。それでは左右はどうか、天井はどうか、想像してみるに、空間へまとまらぬかぎりはおそらく、ただ抜けている。床もまた、足の踏むところのほかは不確かになる。おそろしいことだ。時間もまた、空間の繰り越しを促そうともしないので、停まっていると感じられる。しかし立ちつくす老人の眼に映るのは、空間の解体ばかりだろうか。内の反復が掠れて、反復から成る空間が解ける時、人の生きる、現に生きている、その実相が見えて来はしないか。/こんな中で生きていたものだ。知らずにあれもした、これもした、と洩れたつぶやきが、実相が見えれば消えていく言葉の、すでにわずかな名残りとなるか。その驚きも散って、内と外がつながり、そこで沈黙が成る。その後からもう一点だけ、つまりは仏だった、と言葉が点るかどうか。―古井由吉『野川』p280より―