寺山修司
/詩人はなぜ肉声で語らないのであろうか?がみがみ声やふとい声、ときにはささやきや甲高い声で「自分の詩」を読みあげないのはなぜだろうか?/かっての吟遊詩人たちは、みな唖になってしまったのだろうか?私はG・ビルケンフェルトの「黒い魔術」の本の中で、グーデンベルグがいかに苦労して印刷機械を発明したかということを知った。だがその苦労は、実は「詩人に猿ぐつわをはめる」ためのものだったのである。印刷活字の発明以来、詩人たちはことばでなくて、文字で詩を書くようになっていた。そこには、詩人と受けとり手のあいだの「対話」などはなくて、ただ詩人自身の長い長いモノローグがあるばかりであった。/私にはそれにあきたらなかった。―「男の詩集」より―
ネット詩人たちは、そんな猿ぐつわから解放されて自由に羽ばたいているのだろうか?それはネット空間だけのフレームというもうひとつの猿ぐつわかもしれない。その空間から飛び出せよ!飛び出したところで、リアルと言う名の「入れ子細工」の外部を装った内部であるにしても、少なくとも飛続けることは出来る。
詩人は言っている。
/空にかくれようとして飛んでも、鳥はみずからを消すことは出来ないのさ。-「あゝ、荒野」-
詩人の肉声を想い出す。人懐こい笑顔が向日葵となって津軽弁で詩を語る。
列車にて遠く見ている向日葵は少年のふる帽子のごとし