青木淳悟/トマス・ピンチョン

9/25記:青木淳悟の第三十五回新潮新人賞受賞作『四十日と四十夜のメルヘン』を読みました。保坂和志氏は本作を絶賛して、“トマス・ピンチョンが現れた!”と、興奮を隠さない選評を新潮’03年11月号に発表しています。

他の選考委員、川上弘美氏は、二回読み直したが、よくわからなかった。沼野充義氏は〔……〕この作品には、読者に精緻な読解を求めるだけの物語の魅力とか、あるいはジョイスやナバコフやピンチョンの作品に備わっている、小手先の技術にはとどまらないヴィジョンが欠けている。そのため単に通読しにくいだけの、メルヘンとちょっと実験的なメタフィクションの退屈なごたまぜになってしまった〔……〕、福田和也氏は―小説でしか出来ない、書けないことを一心に追い詰めて辛うじて実現している。―町田康氏は、〔……〕思わせぶりばかりが目立つ意味不明の悪戯書きで、こんなものは駄目だ、とおもいきり×をつけたが、ひとりの委員が、これは周到な計算に基づいて緻密に構成された世界であり、トマス・ピンチョンにも通じるところのある大傑作である、と主張、説明を聞いてなるほどと思う部分もあったがもしかしたら自分があほで分からないだけかもしれぬと思ったのでこれにしたがった。と、町田氏らしいセリフである。

保坂和志氏のキーワードは“判じ物”である。例えば、本作では四の目が目立つ。タイトルもそうだけど、メイフラワー下井草の主人公の部屋は四階であり、日記も7/4から始まるが、7/7までで、その四日分が繰り返し日記として書かれる。創世記では四日目に季節や日付や時間が生まれるらしいし、4は四大元素のことでは…、と保坂さんは奥さんと言い合いし始めているらしい。一体、判じ物とは何なのか?広辞苑では―謎の一種。文字・絵などにある意義を寓して、それを判じさせるもの。―とあるが、余計、謎めいて分からない。保坂さんの言葉を借ります。

判じ物というのは不思議な魔力があって、その意味するところ、指し示すところを考えれば考えるほど、真理値が現実から判じ物の方にシフトしていき、判じ物を解くこちらの主観としては、作品が現実世界を飲み込むような気持ちになってくる。

そう言えば、ぼくにも多少そんな傾向があり、馬券でも、パチンコ台でも、1、4、をラッキーナンバーとして必ず、組み合わせる。今はもう、ギャンブルをやりませんが…。
最近、まさに9・11の日付にスーパーで買い物したら、レジカンターの数字が911円になったのです。レシートがあります。あんまり、偶然のぴったりで、ひょっとして何かが起こるのではないかと、思わずレジの女の子に“911”だと、大きな声で指し示しました。???なので、彼女にその説明に大わらわになりました。その前に777円なんてもありました。思わず、“やった”と叫んだが、このときは、レジの子は理解してくれました。結構、数字を判じているのです。馬鹿な振る舞い、そうかもしれません。保坂さんは書く。

私は作品に込められた裏のメッセージを読み解いたりするマニアックな読み方は好きでないし、この小説にも裏のメッセージが込められているわけではない。そういう真理が裏にある世界像とは一線を画している。〔…〕ここにあるのは特定の誰かが力や真理を握る世界像ではない。この世界には裏も奥も超越もないけれど、言葉があるだけで意味や力はすでに充満している。

ぼくは、暇で暇で堪らなくなったら、この小説をコピーしてパラグラフ単位に切り取って、野口悠紀雄の忠告を聞かないで、日付もナンバーも印せず、シャッフルして、ランダムにパラグラフを取り出し、延々と更新し続けて無数の小説を読んでみようかなと、思いました。本作品の最後は<未完>になっています。