内田樹/鷲田清一/口八丁手八丁でなく聴く耳

鷲田清一『「聴く」ことの力』(TBSブリタニカ p10)のは読んだことがあるのですが、内田樹の『死と身体』(注:先生は講演を頼まれると、演題の指定がない場合、「これで日本は大丈夫?」か「身体論」のどちらかにするらしい。ネットコラムからのものなどを収載したもので構成されているのか、変幻自在の面白さはあるものの、『街場の現代思想』(NTT)は残念ながら、腰を落ち着けて読了出来なかった。だが、2003年8月から翌年の3月まで、朝日カルチャーセンターの講演をメインにした身体論、『死と身体』(医学書院)は再読したくなる優れものでした。もし、これから内田樹を読みたくなったら、身体論に関しては本書をオススメします。「これで日本は大丈夫?」の内田樹入り口は、勿論、『「おじさん」的思考」』です。)の中で触れられているので、孫引用します。末期がんの患者に対してどのように応接するかという設問です。

「私はもうだめなのでしょうか?」という患者のことばに対して、あなたならどう答えますか、という問いである。これに対してつぎのような選択肢が立てられている。
(1)「そんなことを言わないで、もっと頑張りなさいよ」と励ます。
(2)「そんなことを心配しないでいいんですよ」と答える。
(3)「どうしてそんな気持ちになるの」と聞き返す。
(4)「これだけ痛みがあると、そんな気にもなるね」と同情を示す。
(5)「もうだめなんだ……とそんな気がするんですね」と返す。
 このアンケートを医療関係者におこなったところ、医学部の学生は(1)と答えたそうです。ナースはほとんどが(3)。精神科医師は(5)と答えました。正解は(5)です。つまり意味性は関係ないのです。[……]-p84より-

おうむ返しの会話は小津安二郎の映画のセリフによく登場しますが、ぼくの長所でもあり、欠点は、すぐに(5)と言ってしまう癖が小さい頃からあって、意識的に矯正しようとまでしていました。会社勤めの頃も、人事部長に面接されて、「あなたはインストラクターのようなポジションが向いている」と言われたことがありました。でも、中小企業なので、そんなポジションはありません。結局、後日、この人事部長の悩みを聴かされたことがありました。別の会社でワンマンのトップに「ワシは孤独なんや」って告白されたことがありました。想い出すと、似たようなことが沢山、あります。でも、それで、不満を漏らされたことがあります。「○さんは、繰り返すもんな…」、そう、無意識にやっていたんです。これで、随分、矯正されたのですが、内田さんんの引用を読むと、別段、矯正すべきではなかったみたいですね。ただ、そうは言っても、ずぼっと、相槌を打てないことがある。どうやらそれは、相手が捏なれていない大文字言葉を自分に身体化しないまま、マッチョに乱雑に文脈上の検証をしないまま、まあ、アジテートに近い言葉ですが、こんな言葉に出会うと、ぼくは無視して逃げることに決めている。おうむ返しをやってもいいのです。でも、こんな風に言ってしまうでしょう。「ヒューマニズムって、どういうことか、教えて下さい、喧嘩しているもの同士が民主主義を唱え、攻撃する時、ファシズムと弾劾する。これでは噛み合わないですね。両者とも民主主義で理論武装しているのですから…」、だから、その民主主義の中味を知りたいのに、中々教えてくれない。ヒューマニズムもしかり。アウシュビッツは民主主義の成れの果てではないのか、ヒューマニズムファシズムは連鎖しているのではないのか、そんな嫌味を言ってみたくなる。
 画家の合田佐和子さんの伴侶でもあった耳の彫刻家故三木富雄は、四谷シモンのアパートの台所で新聞紙を一杯に拡げて、耳の制作に勤しんだと聴きますが、三木さんは「聴くことに」偏した人だったのでしょう。僕も、変に矯正しないで、「聴くこと」に徹することで、よいのではないかと、昨今、思っています。ぼくの知り合いのお嬢さんが合田家で撮った三木さんの耳を耳に当てた写真を送ってくれたことがありました。とても大きな耳です。
「聴く」ことの力―臨床哲学試論悲鳴をあげる身体 (PHP新書)立ち話風哲学問答雨月の使者
【鷲田さんのHP】を覗くとこんなオモロイページがありました。
『立ち直りたいんなら、やっぱSMでしょう』、構成は永江朗で、鷲田清一田口ランディの対談です。