四方田犬彦/坪内祐三(7/29記・旧ブログ移動)

◆雑誌「新潮」今年の2月号で『1968』四方田犬彦『1972』坪内祐三が対談しているのですが、渡部直巳の『68年の作家』について触れている。

四方田 あの当時、僕の中にはハイカルチャーサブカルチャーという区分はなかったです。坪内さんの世代だってそうだと思うんですけれども、そういう文化的なヒエラルキーがあってから何かやろうというのではなく、まずモノがあった。だから、漫画もあんなに夢中になって読むことができたんだと思う。
四方田 すごいですよ、ニーチェを百万人が買ってしまう国というのは。それで、筒井康隆が『火星のツァラトゥストラ』という軽妙な短篇小説を書いたりしてね。/ハイとローの話ですが、ああの当時、僕が吉本隆明という名前を覚えたのは、『COM』という漫画雑誌に岡田史子吉本隆明の詩を引用しているからなんです。それまでは漫画がハイクラスな思想とかかわるということはありえなかったのに、はじめて道筋ができたのが六十八年ということです。七十年代の始めに新潮社の翻訳を通してブルガーコフの『悪魔のマルガリータ』を読み出したとき、「何だ、これは、ローリング・ストーンズの『悪魔を憐れむ歌』の筋と同じじゃないか」と思った。後になってミック・ジャガーの伝記を読むと、「あのころブルガーコフが英語に訳されたばかりで、みんなで読みふけった」と書いてある。六十八年にソ連から秘密裡に原稿が持ち出されて、英訳が出たブルガーコフを、すぐにミック・ジャガーが曲にする、それをゴダールが映画にする。東京の高校生が夢中になる。これがわずか一年の出来事です。そういう流れがあったんです。
四方田 そういう当時の印象を思い起こすと、年齢的に同学年なんだけれども、 渡部直巳が書いた『かくも繊細なる横暴ー日本「六十八年」小説論』(筆者注:目次 第一章 古井由吉の「狂気」の一撃・転用・延命 第二章 後藤明生による「健康(ユーモア)」の企て 第三章 大江健三郎の(無)頓着をよぎるもの 第四章 中上健次の過激な「交錯線(いらだち)」 第五章 金井美恵子の「境界線(フィクション)」)というのは、何かちょっと違うなという感じがしましたね。彼によれば、「六十八年の作家」というのは五人いるということで、それが古井由吉大江健三郎後藤明生中上健次金井美恵子となっている。その五人が、隠喩を乗り越えてエクリチュールを実践している、と強調する。旧世代の埴谷雄高などは隠喩ばっかりだが、六十八年の五人は隠喩を否定していて、彼らは日本のヌーヴォロマンだ、というふうに論を持っていくんだが、これは幾らなんでも無理があると思う。/渡部が言いたいことはわかるんです。ログ=グリエが五十八年に「自然・ヒューマニズム・悲劇」という有名な論文を書いていて、「来るべきヌーヴォロマンは隠喩というものを敵にしなければいけない。すべて人間中心主義であるような隠喩から、物自体を描かなければいけない」と、そういう図式を立てるんですね。渡部はその枠を応用して、何とか日本の六十八年の作家を当てはめようとしてるんだけれども

◆金井さんの『文章教室』の講師である現役作家をこの五人の作家から強引にカリカチュアして○○さんをモデル仮説して読んだんですが、ぼくの勝手な読みです。
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