ラデツキー行進曲(5/30記)

「小隊止まれ!」とトロッタ少尉は命令した。彼は脇へ寄って、いった。「おれがおまえたちに水を運んできてやる!誰も動いてならんぞ!ここで待っていろ!バケツをよこせ!」機関銃隊から、水を通さない亜麻製のバケツが二個彼のところへ持ってこられた。彼は二つのバケツをとった、左右の手に一つずつ。そして彼は斜面を登っていった、水汲み場に向かって。弾が彼のまわりをびゅんびゅんと飛び、足もとに落ちたり、耳や脚や頭の上をかすめたりした。彼は水汲み場の上に身をかがめた。彼は向う側、斜面のかなたに、二列に並んで狙いを定めているコザック騎兵たちを見た。彼はこわくなかった。弾はほかの連中と同じように彼にもあたることがありうるのだ、ということが思いつかなかったのである。彼はまだ落下しないうちから銃声を聞いていた、そして同時にラデツキー行進曲の太鼓で始まる始めの拍節を。彼は父の邸のヴェランダに立っているのだった。下では軍楽隊が演奏しているのだ。今ネヒヴァルが頭部が銀でできた黒檀の黒い指揮棒を上げるところだ。今トロッタは二番目のバケツを湧き水の中へ下げる。今彼はバケツを高く引き上げる。両手に水のいっぱい入った、溢れんばかりのバケツを持って、まわりを弾がひゅんひゅんとかすめる中を、彼は左足を踏み出しておりていった。今彼は二歩あゆんだ。今彼の頭は斜面のへりの上にほんのわずか出ている。/そのとき弾が彼の頭蓋にあたった。彼はもう一歩踏み出してから、……(485頁)

本当は、ヨーゼフ・ロート著『ラデツキー行進曲』の書籍データーを貼り付けたかったのですが、アマゾンもbk1もデーターがありません。ぼくの手元に昭和四十五年発行の『世界文学全集57巻』(筑摩書房)にラデツキー行進曲が柏原兵三訳で収載されています。立派な装丁で、ブックオフの百円コーナーで買ってきました。彩りが欲しいので、替わりにCDの画像を借景しました。悪しからず。保坂和志さんは、カフカ、ジェイムズ・ジョイズ、バージニア・ウルフをメルクマールとして、この三人より前に生まれか後に生まれかで、すべての作家、哲学者をチェックして、保坂さん自身を含んだこの百数十年の世界の文学史の見取り図の中で、恥ずかしくない作品を上梓するために研鑽しているらしい。かって旧ブログでも書いたのですが、鶴見俊輔の1905年のメルクマールと、呼応するものがある。三人の作家にとって1905年は多感な青春時代である。確か、ヨーロッパにおいては大戦とは第二次世界大戦のことではなく、第一次世界大戦のことであり、その大戦によって、ヨーロッパは勝った方も負けた方も傷つき、重苦しくて憂鬱な時代精神を背負って、結局は第二次世界大戦へと、静かな歩みを刻するのですが、1905年の日露戦争以後も似たような状況であろう。

保坂さんは“メルマガ(vol、11)”ヨーゼフ・ロートの『ラデツキー行進曲』を引用紹介しているが、これは鶴見家三代似た(ぼくの独断です)、トロッタ家三代にわたる話で、一代目は皇帝フランツ・ヨーゼフを身を挺して助けて立身出世し、男爵の位を授けられる(後藤新平に当てはめる)、二代目は一代目の御蔭で群長になり(二代目鶴見裕輔は後藤新平の娘婿であるる)、行政官としてそつなくこなす。これと言って、悩みも内面もない。物語は三代目が登場することによって、佳境に入る。オストリアーハンガリー帝国の歩兵少尉の三代目は第一次世界大戦に巻き込まれる。三代目鶴見俊輔第二次世界大戦に巻き込まれる。

戦場で三代目が死に、その知らせによって、二代目に内面が生まれる。それには悲痛なものがあって、現代人はみんな、二代目が人生の最後に知ったその悲痛な内面を抱えて生きている、とも言える

と、保坂和志さんは総括している。まあ、詳細はメルマガでロムして下さい。