幽霊/死者/デスコミュニケーションの交歓

久しぶりに、bk1にレビューアップしました。内田樹の『死と身体』(医学書院)です。おしょうさんのブログ“方丈”で「死」をエントリーしたスレがあって、ぼくのブログと往還しながら、長々しいカキコをしていたので、それをほぼ、コピペしたのですが、制限文字数を大幅にはみだして、削除するのに骨が折れました。

丁度、オリオンさんが、シンクロ(ぼくの勝手な想像)してくれたのか、同じくアップしてくれました。オリオンさんの大意と僕の大意が大体のところ、同じようなものだと、都合よく解釈して、オリオンさんのレビューを紹介し、拙レビューも貼り付けました。それでも、ちょいと、レビューアップ出来なかった、蛇足めいたものを方丈でのカキコをネタに付け加えてみました。興味のある方は、まとまりのないものですが、ロムして下さい。
bk1レビュー
オリオンさんの『死者のメッセージの不法代弁者に対する「霊的反撃」』
栗山光司『死者(他者)と交歓、交換、そしてゴウカン…』

オリオンさんはレビューで幽霊/死者に触れている。フッサール現象学は「幽霊学」で、ハイデガー存在論はガイスト(祖霊)にこだわる「死者論」(鎮魂論)らしい。
そうか、ぼくはフッサールなのか、でも、オリオンさんと違って哲学的素養がないので、理論武装が出来ず、直感で言っているだけに過ぎないのですが、過日、おしょうさんの“方丈”で“死”のエントリーで幽霊/死者についてカキコしていました。

ぼくの場合、徹底した他者として死者を捉えており、ぼくの頭の中に「死者としてのわたし」という概念がないと極論していいかもしれません。「鏡に映しえない」、目に見えない構造であり、無定形に変換する、幽霊のようなものかも知れない。恐らく、構造主義以降のいわばポストモダンは、かような幽霊の正体を明かそうとしているのかもしれませんね、でも、ぼくにはこれ以降の哲学を勉強したいとは思うのですが、数学なり量子力学なり、物理学的な素養のなさに、現在、お手上げなのが実情で、ぼくにはポストモダンを語る資格がないのです。勉強したいとは思っているのです。

思っているだけで、いまだにこの地点から遠くへ行っていないのです。ぼくを指導してくれる先生が必要ですね(笑)。

「死者の眼」の立ち位置という物言いと矛盾する言い方に聴こえたかもしれませんので、もう一度、念を押します。「死者としてのわたし」/「死者の眼」は、私/他者なのです。だから、この他者を理解することは出来ない、理解できたとしたら、それは、他者でなく、<私>だろうという作業仮説が前提にあると言って良い。その<私>からはみ出たもの、鏡に映らないもの、それが他者なのです。だから、ぼくは幽霊なんて言ってしまったのです。理解出来なくとも、交歓は出来る。葉っぱが幽霊と交歓できるなんて言うと、あやかしの枯れ尾花になってしまいますが、(笑)

例えば、保坂和志の猫小説に夏目漱石のように擬人化した猫でなく、猫自体を描こうとしている試みに、ぼくは別段、猫好きではないですが、とても共感しているのです。猫であれ、死者であれ、ネアンデルタール人より他者性があります。恐らく、誤解を怖れず簡略に言っちゃえば、言葉/物、においての、物自体のことを他者と概念措定しているかもしれない、そうすると、おしょうさんの最初のスレである言語的自己に戻るようですが、共通の基盤があるように思います。
幽霊でなくて、猫と交歓、物と交歓なら、わかってくれると思います。

ぼくのカキコだけ引用すると、理解しがたいところがあります。他の発話者のカキコに対するレスの流れになっていますので、興味のある方は“方丈”をクリックして参照して下さい。⇒http://blog.livedoor.jp/osho/