超越系爺の他害原則/愚行権

最近、少年、成人による同居の家族を惨殺する痛ましい事件が連続して起きたが、いつもこの手の事件に接すると、何故、彼ら彼女らは、家族を捨てるという選択肢をしないのかと、家出なり、出家なり、社会の底の穴が抜けているとの認識があり、“社会化”なんて、糞喰らえと言うなら、家に引きこもらないで、海へ山河とは言わないけれど、街の只中へ何故、飛び出し、穴から落っこちてこれ以上堕ちようのない宙に引きこもるという選択があるはずである。そりゃあ、オウムのようなまがいものに拉致される危険があるが、宗教団体も、乞食集団も、ある社会を形成している、不断に教祖であろうが、相対化する営為を継続して、安易に「ありがちなパターン」に逃げないことでしょう。

でも、アイロニーだけで生き続けるのは物凄くシンドイ。でも、折角、穴を抜け出たのに似たような穴に入り込み、別の社会の住人となり、又、出て、入ったり出たりを繰り返す手の込んだ回路を用意しているのも資本制システムの懐の大きさ深さでもあるから、“逃げたつもりが、逃がされている”“演技しているつもりが演技させられている”というのが実態かもしれない。

そうであっても、『家出のすすめ』を奨める。かって寺山修司は少年、少女たちに「家出」を薦めた。すすめるだけでなく、受け入れて、面倒をみた。吉本隆明は自分の体験から『ひきこもり』を肯定的に捉まえているが、通過儀礼として、「家出」「ひきこもり」はセットのツールで、社会化への窓口切符なのに、それなしで、顔パスで社会へ入場してナイーブさのない強面で政治をやる処世家が増え続けていることが問題なのでしょう。

宮台真司×宮崎哲哉の『エイリアンズ』(インフォーバーン)を読了しました。

宮崎:[……]つまりアニメの『エヴァンゲリオン』なんですね。『エヴァ』が実は暴走する身体を拘束するための装置であるのと同じで、宮台さんの自己決定権は、むしろ自我を拘束する仕掛けとしてある。自己観念なり、自己権力なりがどんどん展開して、他人を巻き込んだり、傷つけようとする運動性を、あえて制度で強化された境位を設定することで止めようとしているんだと思った。そこに気づかない愚鈍な論者たちって、まあ、どうしようもないなと(笑)。
宮台:まことに正しき理解(笑)。何をすれば「禁を破る」ことになるか、標識を立てたんですね。「超越系」の人間が辛うじて「社会を生きる」ために必要な速度制限。自己決定原則は、他者の人権を侵害しない限り、自らを傷つける愚行を含めて何をしてもいいとする。他害原則と愚行権の組み合わせ。でもその程度の「内在」では「超越系」は幸せになれないんだけれど。

どうも超越系の爺としては、そんな内在化で半世紀をやり過ごした己を指呼された気がして苦笑いしました。

宮崎:生悟り、野狐禅がいちばん質が悪いんです。ナーガールジュナも「空」の悪解は人間を破壊すると戒めているけど、下手の考え休むに似たり。徹底的に考え詰められない人は考えないほうがよい。/瞑想とか、禅修業とかしていると、自我が薄らいで、純粋感覚みたいなものが覚醒したと思えるんです。もう少し進むとオウム信者のように「身体が光の粒子と化して溶解するような」経験ができる。だけどね、これは無我ではないの。無我を知るためのメタフォーとしては有効だけど、これを無我そのものと見誤ると、無我どころか無辺に拡大した我を肯定してしまうことになる。「四禅比丘」の故事にある通り。無我、縁起の理法は、禅定とともに、透徹した観察と燈明な思考とによってのみ得られるんです。
宮台:それも現象学の問題と同じ。世界のなかに私がいると思うのは誰か。それは私だ、と思うのは誰か……。同じ構造が「超越」一般に存在する。それを「超越」だと思うのは誰かを巡って「超越」はいつも「内在」に回収される。結局、論理的には「超越」なるものは表象した瞬間で終わる。「超越」を志向せざるを得ない「動物ならざる存在」って可哀相なの。

ヒトであることで、生き続けるのはホンマにやっかいです。でも、やっかいを他害でリセットしないで、愚行で、家出なりをして放浪の一歩を始めたいものです。それからですよ、家の玄関から足を踏み出しましょう。たかが、ハウスではないですか、ホームではないのです。
参照:吉本隆明著『ひきこもれひとりの時間をもつということ』
寺山修司家出のすすめ―現代青春論 (角川文庫)