本年度のできごとというできごと

きょうのできごとというできごと [DVD]きょうのできごと (河出文庫)世界の中心で、愛をさけぶ世界の中心で、愛をさけぶ スペシャル・エディション [DVD]冬のソナタ Vol.1 [DVD]
本年度に話題になった本、映画と言えば、片山恭一『世界の中心で、愛をさけぶ』でしょう。それは『冬のソナタ』の純愛路線に繋がって韓流となる。近場のレンタル屋さんには、韓流コーナーが設置されて賑わっている。本書は新刊でなく、旧刊ですが、店頭での口コミで、じわじわと売れ始め、今年、火がついたと言うわけです。僕は本書に関連して生硬なことを書いていました。

七十年代以降には、欠如を前提にした生き方が終わっている、と論じた。ところが、「人類補完計画」といった発想は、まさに補完されるべき精神的な欠如を、前提にしていることになる。やはり、ある始発的な欠如を前提にした発想です。この矛盾をどう考えるか。/整理するとこうなる。まず、理想の時代は、欠如を前提としたスタイルの時代です。ついで、欠如の不在の段階がくる。そして九十年代の、つまり『エヴァ』の時代には、再び若者は、欠如を覚えていることになる。しかし、この三番目の段階では、何が欠如しているのか。思うに、具体的に特定しうる何かーたとえばお金だとか、社会主義のような来るべき理想の社会とかーは、何も欠如していないんです。欠如しているとすれば、それは欠如そのものです。何も欠如していないことに、欠如感を覚えているんです。これは自己矛盾的な欠如ですね。欠如が克服されたとき、今度は、欠如がまさに不在であるということに欠如を覚える段階がやってくるんです。それが現在です。ー大沢真幸著『戦後の思想空間』よりー

エヴァ』の、精神的に欠けているということを前提とした「人類補完計画」に触れた大沢真幸の講演から引用したが、すべてをチャラにして極貧から出発するのも一計かもしれない。傲慢で独り善がりな鼻持ちならない物語だとしても。でも、こんなことをあるところで、言ったら顰蹙を買いました。でも、此の国に充満、拡がっているある種の症候群は、『欠如の欠如』に由来してるとの認識はそんなにズレていないと思う。実際問題、今、持っているものを手放すことが非現実的であろうから、出来る限り、後生に残さないで蕩尽すればいいのではないかと、結構、マジに言ったのですが、あまりにも、子無し、財なし、年寄りのぼくに都合のいい世界解釈ではないかと、不真面目だと、白い目で見られたのです。心の病の主原因がそんな欲望の行き場のなさであるなら、社会の底が抜けたところで、道をつくるというシステムを用意することが、政治、行政であろうが、結局、それも悪く言えば、捏造、良く言えば、工夫ですが、社会システム延命策に変わりない。問題は、リセットボタンを押すことしかないのか、でも、これも予測可能性の中で選択すれば、同じことであり、予測不可能性の出来事を招き寄せることしかないのだとしたら、随分、精神の強度を、覚悟が要請される。そんなぼくの言い分は説得力がないのは当然です。だから、黙して語らないのがいいのかも知れない。ニート(Not in Employment, Education or Training)の問題は、豊になってしまったつけを支払うということでしょう。少子化の問題もそう…。

それはそうと、新刊でないのに突如、評判を呼んでしまった本書は不況の中で、事件性を帯びるみたいである。その裏仕掛け人の担当編集者がクローズアップされ、編集者を映画のプロデューサーのようにクレジットして、本屋の店頭で編集者コーナー棚を作ると面白いのではないかという提案が、業界紙でなされていたが、出版不況の最中、個人のブランド性を特化して差別化を計ろうとする試みは面白い。 “世界の中心で、愛を叫ぶ” は映画化もされたが、監督は『きょうのできごとというできごと』行定勲監督なんですね。