鶴見俊輔・小熊英二・上野千鶴子

今年オススメの一冊は鶴見俊輔の『戦争が遺したもの』と思います。別段、鶴見さんに関してこの本を読むまでは、ある種の先入観があって厖大な観見俊輔テキストが本屋の棚に図書館に陳列されても本として手に取り読了しようという気が起こらなかった。ただ、『思想の科学』や雑誌などで、鶴見さんの一文を読むことはありました。でも、それによって刺激を受けることもなかった。所詮、縁のない人だと思っていたのに、ネットを始めて色々な人達と知り合うようになると、結構、鶴見俊輔の話が出る。ぼくがよく訪問するネットの原田達研究室でも鶴見俊輔資料室があり、武田徹も、永江朗も鶴見さんに特別な感情を抱いている。よく考えたら、ぼくの学生時代、鶴見さんは講座を持っていたはずですが、講義も聴いたことがない。そんな貧しい履歴なのに、本書を手に取ったのは、『<民主>と<愛国>』(新曜社)の小熊英二が鼎談参加しているから、それに惹かれて読み始めたのです。おまけに上野千鶴子も、あまり近寄りたくなかったので、小熊英二のクレジットがなければ、多分、縁のない本になったはずです。タイトルも回避したくなるベタなものなので、嫌々ながら読み始めたのです。
じつは読書会のテキストに採用されることになり、では、では、とページをめくったら、その見事な編集構成は小熊さんのセンスだと思うが、鶴見さんのその時代に共棲みしながら、“逃げる”という逆説的な武器で、リアルタイムに生き、戦った少年、青年、そして老年の実存が本書から確かな手応えで立ち上がってくる。この想いを出来るだけ多くの人と共有したいなぁ…、と思わせしめるオススメの一冊として文句の言いようがないと、熱い気持ちになったのでした。♪『第四回読書会』
旧ブログにもこの本を巡ってのテキストが沢山ありましたが、できるだけ整理してこのブログで紹介しています。⇒『鶴見俊輔』
追加:旧ブログ(4/13記)

上野:…/仏教は、是非善悪を超越したところがあります。原始仏教も、鎌倉仏教もおもしろい。鶴見さんがそういう方向に行かれても不思議はないような気がしたんですが。禅なんかも、身体性と精神性の結びつきで、信仰とは言えませんし。

鶴見:私は宗教の問題には関心はありますけど、勉強してみたら、中世のスコラ哲学ですでに私の問いに対する答えは出ているんですよ。パラケルススという神父がいたんですけど、彼によれば、完全なキリスト教の信仰を持っている者は、善行をすることができないんです。なぜかというと、信仰を持っている者は何が善行か知っているわけですから、善行をやったら必ず天国で報酬があることを期待しているわけでしょう。そうなれば報酬目当てになるから、善行にならない。そういうパラドックスキリスト教信仰のなかにあることを説いた。
 だからそうなると、善行というのは、神を信じていない人間が、偶然に何となく良い行いをするときにしかありえない。だから、無神論者の偶然の行為の方が、完全なキリスト教者の行為よりも、善行に近いんです。

小熊:つまり、「俺は正義の側にいる」と思いながら善行をすることはできない。「俺は悪人だ」と思いながら、偶然の出会いに期待するしかないと。

鶴見:そうです。教義とか進歩とがあって、必然があるんじゃない。これも私の歴史の見方につながっています。それから、大切なものは明確な教義にあるんじゃない。大切なものは、あいまいな、ぼんやりしたものだ。そういう考え方がありますね。これは私にとって、方法以前の方法なんですよ。

小熊:それでタヌキがお好きなわけですか。

鶴見:タヌキは信仰していますよ(笑)。それは戦争中に、「歌う狸御殿」という宝塚の映画を観てからですね。がちがちな戦争の重苦しさとは関係なく、楽しくやっている。もう、すっごく面白くて。

小熊:キリストやマルクスに、タヌキで対抗したいと述べておられますよね。

鶴見:キツネだと、人をだまして、だましおおせるっていう感じがあるでしょう。だけどタヌキは最後にばれるんだよね(笑)。それが面白いんですよ。

『歌う狸御殿』は観た記憶があります。タヌキか…、葉っぱがないと、タヌキは人を騙せないんだよね。鶴見さんの「人を殺す立場になる前に、自殺してしまう」という信条に対して、自殺は自己責任の範疇であり、他殺は範疇外と峻別して考えるべき問題でなく、そこに整合性を求めるなら、「人を殺すのは悪い」そして、又、「自殺するのも悪い」と言い切る必要があるかもしれない。との違和を感じて、武田徹さんはblogに、かようなカキコを本日していた。思わず、ぼくは共振してペーストしてしまったが…、

だが、その一方で自死の肯定を基礎に踏まえる姿勢は、結局は他殺も否定しきれないのではないかという危惧も感じる。このあたりうまくいえないんだけど、未来の自分の生存権を現在の自分が絶つことの暴力というか、「自殺して満足」という命題そのものの根源的な不合理性というか、なんかひっかかる。答えをまだ出せないし、出したくない感じがあって困るが、少なくとも自死のために劇薬を携行していたという鶴見さんの話は、うまく説明できないなりにも、彼の他の部分の思索とどこか食い違うような、整合性を欠くような感じがするのだ。

自爆テロもこのような視点で検証することが必要かもしれない。自死を肯定するなら、他殺も肯定する。自死を否定するなら、他殺も否定する。自死を肯定しながら、他殺を否定する。確かに矛盾に満ちている。だけれども、鶴見さんの気持ちはわかる。でも…。だから、鶴見さんはこんな風に言ったのだろう。

だから戦後に私が考えたのは、「自分は人を殺した。人を殺すのは悪い」と、一息で言える人間になろう、ということだった。それが自分としての最高の理想で、それ以上の理想は、自分に対して立てないし、他人に対しても要求しない

一息に鶴見さんの中で、自殺を禁じ手としたのであろうか、禁じ手としても避けられぬ事態は、勿論、あり得る。だから、呪文のように何十年と「人を殺すのは悪い」と一息に言えるように宿題として課したのであろう