読書会資料

旧ブログ5/20付より転載します。一部、上のテキストと重複するところがあるかもしれません。茶室のおしょうさんの許可をもらって、おしょうさんの『文明の内なる衝突』レジュメをペーストして、コメント、乃至メモを加えながら、ぼくのレジュメにしたものです。問題の流れ、思考の軌跡を、このレジュメに沿って行きたいと思ったからです。

  • おしょう:【資本の時代の終わりと、情報の時代の始まり】このレジュメでは、上記課題図書(以下本書)を、「描き切られなかった新時代の到来を告げる書」と措定する。「措定」という用語に、そのように(正当に)理解できるという支えを放棄し、このように読んでみたいという願望を核とした実験である、という思いを込めた。
  • 栗山:おしょうさんの願望が色濃くある読解です。
  • おしょう:本書のどこが新時代の到来を告げているか。「羞恥」の定位である。しかし、その原理を「交換の体験」(つまり資本主義の起点)から描き出そうとする点において、描き切られていない。
  • 栗山:第三章までは社会学者としての大澤の思考実験の集大成であり、本来ならば、『性愛と資本主義』、『資本主義のパラドックスー楕円幻想』、『戦後の思想空間』なども、必読として、本書の理解を深めるよすがとすべきであったが、色々な制約でそれが叶わなかったのは残念であるが、個々人がそれぞれに今後の宿題として、読み進むうちに本書で不明確だった部分が了解できるかもしれない。本書のあとがきで書いているように、大澤は9・11の衝撃の下にーあのテロは、この忘れやすい夢のようなものである。これを急いで書いた。忘れてしまった夢になる前に、これを書いたのである。−だから、本書は論理に整合性がないかもしれない。その補助線として、彼の9・11以前の著作を読むことによって、本書の読解に資することになるのは間違いない。ただ、おしょうさんにしろ、ぼくにしろ、具体的に提示された第四章『弱くかつ強い他者たちへ』における「恥」に感応して「自他の壁を溶かす」概念というより、ぼんやりとした実感で、「恥」について考察したいとの想いが本書を選んだ動機だと思う。「恥」を措定した、意識して希望を読み込んだ読解なのです。
  • おしょう:〈…原罪は、言ってみれば、人は、何かを与えられる前に、単に存在しているということだけで債務を負っている、ということを含意している。……恥の感情は、他者を介在させる自己触発の関係に深く結びついている。つまり、それは、「してもらう」という関係に根づいているのだ。もし、この自己触発の関係が人間にとって本源的であるとするならば、そのことが含意しているのは、誰もが、単に存在しているということだけで、自らにとってポジティヴな何かを(他者に)してもらえる権利を有している、ということである。それは、原罪とちょうど同じ深さの、還元しえない最初からの原権利である。(p.222)〉
  • 栗山:だからこそ、原罪概念は逆説を産み、十戒が何でも許される人権概念へと、普遍化の極点に向かって実体のない虚構性(虚無)の投資のための投資、使用価値を無意味化する交換価値→情報価値へと、規範性のない歴史性のない記号の極北に向かう。その世界に耐えられるか?耐えられなくなれば、彼の第三者の審級における弁証法的三幅対はアナログなリアリティあるナショナルなものに回帰する指向性を持つのではないか、そこの蹈鞴踏んだ立ち位置で、その出口の指標として、恥」が登場するのです。
  • おしょう:本書は、テロが外化することの許されないできごとであることを、しつこく記述していく。テロに対する社会哲学の失効(序章)を前奏に、「資本主義」という文明そのものにテロが内在していること(第一章)の指摘から始め、イスラームキリスト教−資本主義の双子性あるいは交換可能な対称性(第二章)を定位した上で、それらがすでに相互に相手を飲み込み合い一つの大きな文明のうねりとなっている様(第三章)の形容へ至る。「外部」のない息苦しさ、第三者の審級の不在(の予感)からくる心細さが、これでもかといわんばかりに迫ってくる。
  • 栗山:第三者の審級の不在に関しては東浩紀との対談集『自由を考える』(NHK)はわかり易いマッピングをしてくれる。フーコーの生権力とも繋がるのですが、神(第三者の審級)が不在なら、安全の問題を工学的にセキュリティとして捉えるのです。メタフォーで言えば、ICカードは「記号としての神」かもしれない。それと、情報の問題をどう考えるかです。
  • おしょう:テロは、「資本主義」のダイナミズムがある限界点へ近づいたとき、我々の文明そのものが、見失ってしまった自らの影を求めて苦悶する、孤独な絶叫なのか。
  • 栗山:孤独な絶叫に耐え切れないで、思考停止して『自由からの逃走』(フロム著)を始めて、国家、民族へと回収されたがる。森岡正博さんの『無痛文明論』での考察のある部分は「孤独」に耐える大切さを教えてくれる。「苦痛を引き受ける耐性」の強靭さを身につけることは困難である。
  • おしょう:ここで、本書にはない一つの仮説を導入する。「資本の時代はすでに終わり、新たな情報の時代が始まっている。」着眼点をシフトすることで、断末魔の叫びを、誕生の痛みを伴う産声と聞く可能性を模索することが目標である。
  • 栗山: おしょうさんの着眼点は、いわば、大澤の弁証法的三幅対の?「ナショナルなアナログのリアリティ」に回収されるのを拒否して、普遍化、抽象化を極限に推進してゆく。それが、おしょうさんの「措定」する「情報化時代へ」の道行きなのでしょう。それはフーコーの言う「生権力」に繋がり、その主題の両極化は★通時的な方向でー生物として生きよー★共時的方向でー集団を規範を背景とした「人民」で区切るのではなく、特殊な規範を背景としない「人口」で区切る。《もし規範が十分に包括的で普遍的なものであることを指向するならば、それは、身体の集合性を、人民として捕捉するのではなく、人口として捕捉するものにならざるをえない。たとえば、共同体を善く生きる者たちの集合と見なすアリストテレスにとっては、共同体は人口ではない。(145頁)》
  • おしょう:資本(貨幣)の起点が「交換」だとするならば、情報の起点は「言い換え」である。貨幣が「価値」を一元化したとするならば、情報は「意味」を一元化せんとする。このことは逆に言った方がわかりやすいかもしれない。価値の交換基準として抽象されたものが貨幣であるように、意味の交換基準として情報が生まれた。貨幣(資本)が価値を食い尽くしていったように、これから情報による意味の解体が進行していく。
  • 栗山:すべては、代替可能性でより普遍化され、意味の解体が進行してゆくが、言葉は情報として解体され得るのか?例えば、「読者」は解体して「消費者」が本の顧客の対象となっている。流れはそうであるかもしれないが、「意味の解体した言葉」は想像出来ない。ぼくは、もし、世界が解体、滅びても、「言葉のOS」が残っていれば、大丈夫、世界は回生できると信じている。たった一人の、いや、二人か、生き残れば、言葉が又、世界を産む。
  • おしょう:上の仮説から導かれる重大な事実を、一つ指摘しておこう。意味の(現時点における)根源、貨幣における金(きん)に相等する地位にあるのが、存在である。意味の存在本位制は、いずれ存在を見限り、信用取引へ移行する。
  • 栗山:「意味の存在本位制」?この仮説をもっと、詳細に訊きたいです。信用取引は「言葉取引」なのか?そうなら、現在グローバルに流通している「契約法」とどう違うのか?
  • おしょう:大澤真幸によれば、資本主義は徹底的に宗教的な現象である(p.38)。それに倣えば、あらたな時代、情報主義のはらむ宗教性を、早急に見抜かねばならない。少なくともそのダイナミズムの原理が明らかにされるならば、われわれの文明の今後の動きを、少しは予測できるようになるだろう。
  • 栗山:単に下部構造として経済基盤を見据えるのではなく、その根底から宗教的な拡がりと深さで考察する本書は社会学のジャンルを超え、哲学する、世界に発信できる刺激的な本である。これからも、継続して読み続けたいと、ぼくの枕頭の書になりそうです。
  • おしょう:恥は、十分にそのきっかけを与えてくれるはずだ。試みに、本書における恥の定義を換用して、「情報の時代」への最低限の指針とし、このレジュメを終える。「恥ずかしさは、本来無意味であるわれわれが、ある意味を担わされているということにもとづく感情である。」(参考 p.214)
  • 栗山:「恥」は自分の中に他者を見る。「嫌悪」は他者の中に自分を見る。
    • 補足:存在の論理性(つまり、原理的に「情報」に侵食されていること)については『いのちの位相』第三章、また存在のはらむ他(者)性については「存在」(ともに、【山寺】の「住職の部屋」)でもう少し詳しく触れている。