大澤真幸/今年、こんな読書会もやりました

12/5のエントリー宮台真司/内田樹/高橋哲哉の『夢の鼎談』についてぴぴさんと妄想に近いカキコをしましたが、j-ticさんから熱いコメントがあり、実現できたら、是非、聴きに行きたいと煽られました。そのやりとりの流れの中で、大澤真幸さんの名前が出てきたので、頭の中を整理する意味でも、今春、ぴぴさん達と大澤さんの『文明の内なる衝突』(NHKブックス)をテキストにした読書会(5/13)のレポートを旧ブログより転載します。

  =愛せなくとも、赦すことは出来る=
栗山:大澤真幸の『文明の内なる衝突』でみんな一様に了解したことは、一回目に粗読した時は、よーく、分かったような気がしたが、二回目、三回目と読んでいくと、逆に分からなくなった、ということである。そんな雰囲気もあったので、道化たレジュメ風メモを読書会の当日、議論の切っ掛けになれば、と自前で用意しました。とてもカリカチュア風ですので、実名表記はしませんが、一様、ぼくなりにまとめをメモと一緒にカキコしてみます。この読書会にオフ/オン参加、p氏のように途中不参加になった人を含めて、大澤の社会哲学三幅対をボックスに見立て、どの人が何所に入るのか検証してみました。?ナショナリズムBOX:p氏、?近代BOX:pp氏、A氏?ポスト・モダン:I氏、H氏、但し、O氏は宗教という拠り所があるので、この大澤の三幅対に入れないで保留とする。こんな、人脈見取り図をまず用意しました。当然、デフォルメしたもので、異論は承知です。

ぴぴ:この三幅対を栗山さんは円グラフで手書きされていました。これがとてもわかりやすくておもしろかった。PP氏は言うまでもなくピピのことですが、「へえ〜、わたしって、近代主義者だったんだ」と最初は驚きました。わたし自身は自分が「○○主義者」といえるような者ではないと思っているので、円グラフを三つに分けた栗山さんの図は新鮮な驚きでした。わたしの名前はそのグラフでいうと「近代」と「ポストモダン」の境目あたりの近代に位置していました。これはよくわかる。わたし自身はおそらく股裂き状態というか、どっちにも足を置いているんだろうと思うので、栗山さんの「独断」による分類にすごく納得しました。大澤真幸さん自身は、『文明の内なる〜』の中で近代主義者についてはロールズハーバーマスがそれに当たると名指していますが、なぜかポストモダンが誰のことを指すのか明言していません。おそらく、誰がポストモダニストなのか、はっきり名指せないのではなかろうかという気がしますし、名指すことを躊躇う事情もあるのかもしれないと思いました。

栗山:何故、こんなことをしたかと言えば、このボックスを越境してのヤリトリは中々ムツカシイ。同じボックス同士ならば、例え思想的背景、歴史観が違っていても、冷戦構造のように噛み合うものです。しかし、ナショナリズム的語法、モダン語法、ポスト・モダン語法は、随分、違い、中々会話が成り立たないと、最近、身に染みて思うようになりました。もっと、簡単な見取り図はないかと、こんなアホなことを考えたのです。かような思考実験を平気で出来るのは、僕自身が?ボックスの住人たる所以だと思います。?は民族という血を?は社会主義であれ、資本主義であれ、歴史観が背景にある。どちらにしろ、?、?の住人達は、絶対、譲り渡す事の出来ない価値観、アイデンティティを持ち合わせている。そんな規範に暴力が内蔵するのは避けられない。(注:栗山)

ぴぴ:栗山さんの解釈では、「近代主義」派には、確固たる歴史観があるというのです。「歴史主義」という足場がある。ナショナリズム派には民族主義がある。ところが、ポストモダン派には、なにか確固たる足場がない。

栗山:平和とは戦争が隠蔽された状態であり、戦間の休戦状態と言ってよい。?は、そんな掛替えのない規範を持ち合わせていない。いわば、前戯だけのイカナイ宙吊りの世界を肯定的に捉まえている。ただ、そんの宙吊りでアイデンティティ・クライシスに耐え切れられるか? ぼくは奇妙にも、その状態を心地よいと感じているので、この辺りの「たたら踏む」地点から議論を展開したいのが本音です。ただ、通常、?の日常に耐えられなくなってきて、え〜い、面倒だ、イッテしまおうと、?のナショナルなものに、例えば、「反米愛国」のような止揚を遂げるのではないか、そして、「親米愛国」と同じボックスで議論を闘わす。現象的には?のボックスの容量が増えているような気がする。そして、実際に?に対抗しうるのは、?でなく、?の近代ボックスであろう。虚構の民主主義であろうとも信奉する歴史観は絶対である。それ故、?に対しては戦力足り得るのです。そのような事情でもあろうが、端から?の世界しか知らないような人とは違って、pp氏のように気分は?で実践になると、?のボックスで闘うと言明する人もいます。

ぴぴ:「イカナイ宙づり状態」の中身については、栗山さんから、けっこう身体的な比喩を使った説明があり、これはなかなかおもしろかった。PP氏、つまりわたしは、心情的には?のポストモダンに近いのだけれど、これが運動の場面になると、ポストモダンでは実効力にならないという自覚があります。社会運動では裁判闘争をすることも多い。裁判では白黒をつけねばならず、「我こそが正義である」と主張しなければ勝てないのです。法廷で、「まあいろんな意見がありますよね、多文化共生でいきましょう。わたしは自分の正しさを留保します」などと言ってはなりません。

栗山:確かにポストモダンの刃はナマクラです。ただ、内田樹のように古武道の達人は「受動性」にこそ、ナマクラに一見みえても、相手を倒す術を心得ているみたいですが、一対一ならば兎も角、相手が集団ならば、その技は通用し難い。かように、ポストモダン多文化主義は絶対的な拠り所がない。?の民族、?の歴史のようなものがない。そこで、登場したのが「恥」の概念です。ただ、テクニカル・タームとして考察すると、益々話がややこしくなるだけであろう。O氏はそれを「愚」であり、「穴」であるとして、認識論的なアクセスでなくて、存在論的なアクセスで、多分、身体的な反応、例えば、無作為に射殺されることになった囚人が「赤面した」シーンや、<極私的>にも、癌宣告を受けた時、顔が青くなるのでなく、逆にハイテンションな気分になってしまった不思議を今後の宿題として「仮説概念として恥」を考え抜こうと決心したのです。「恥」は様々な文脈で取り上げられていますが、ぼくやO氏のようの文脈では残念ながら、取り上げられていないということです。

ぴぴ:大澤さんのいう「恥」とは何か。なぜそれが社会哲学の三幅対という悪循環を乗り越えるヒントとなるのか。結局これが読書会の中でもっとも疑問符がついたのですが、おしょうさんと栗山さんはこの「恥」を身体的な反応ととらえているそうです。そして、テクニカルタームとして「恥」をとらえない。「恥」で世界を分析しようなどと思わない。ということだそうです。「「恥」はテクニカルタームとしては弱い」とは、いずみさんの弁。栗山さんが引用されている「無作為に射殺されることになった囚人が「赤面した」シーン」とは、ナチスの収容所にいたユダヤ人の青年が、たまたま処刑される側に選ばれたその瞬間に顔を真っ赤にして「自分が殺される側に選ばれた」ことを恥じた、という部分を指します(『文明の内なる衝突』p209-211)。また、「<極私的>にも、癌宣告を受けた時、顔が青くなるのでなく、逆にハイテンションな気分になってしまった不思議」と栗山さんがおっしゃるのは、5年前にご自身が医者から癌宣告されたとき、青くはならずハイになり饒舌になった(かといって赤くなったわけではない)経験を指しています。このことをamakoさんは、「当たり前のことだがそんな経験がないので、まったく理解できない。なぜナチスの囚人は殺される一人として自分が選択されたときに赤くなり、そのことを恥じるのか」と疑問を呈した。pipiは、「この状況は、教室で誰も答えられない難しい問題を教師が生徒に問うたときに似ていないだろうか。そのとき自分が教師に当てられたら、おもわず赤面するのでは?」と卑近な例として挙げてみた。つまり、これから何か悪いことが起きると予想されている緊迫感漂う場面で、たまたま自分がその「悪いこと」に当たってしまったとき、人はそれを恥じて赤面するのではないか? これは身体的な反応ではないか? だから、その「身体的反応」を以てして、「救済する側[アフガニスタンで救援活動するペシャワールの会の中村医師]と犠牲者(収容所のユダヤ人)が、同じ質の感情に支配されている。ここに[社会哲学の三幅対を乗り越える]手がかりがある」(p209)というのは論理展開に無理がないか? つまり、「恥」をパラダイム分析の用語としてとらえると、まったく理解不能になってしまう。

栗山:自分で考えるしかないということです。そのヒントとして大澤さんの「恥」は考察に価する。そして、それにリンクして、「徹底的な贈与」が提示されました。徹底性に重心を置いた「無償の贈与」ですが、その前提に「赦し」があります。自己と他者がそれぞれのアイデンティティが変容するのを厭わないで関係性を持つことは、「恋愛の不可能性」と似たような事態が想定されます。まるで、過ぎ去って、別れてから気付くようなものでは済まされないが、一瞬の重なり合い、同一感に拠り所を求めて、それを「愛」としか呼びようがないのでは実践では使えない。ブッシュとフセインが愛することを想定するのは無理がある。ただ、「愛せなくとも、赦すことは出来る」、このフレーズはPP氏より出ました。それが、今回の読者会の成果と言えば言えます。

ぴぴ:「徹底的な贈与こそがテロと戦争を回避する道」だと大澤さんは結論部で語っています。その実例としてペシャワール会中村哲医師たちの活動を挙げる。名無しの探偵さんは掲示板で、「あんなに引っ張って終章で中村さんの実践を勧めるならこの本のほとんどはアクセサリーにすぎない」「大沢のもったいぶった文体にいらついてきた」と吠えておられたが、さもありなん。これが結論なら、最初からそう書けばよさそうなものであるし、中村哲さんが書かれた本は何冊も出版されているから、そちらを読めばいいということになるかもしれません。でもわたしたちは大澤氏の思考の順繰りを後から追いかけることにより、ペシャワール会の活動の哲学的な意味を知るし、おそらく中村医師自身が気づいていないそのメカニズムを考えることによって、これから起こりえる/今起こっているテロと報復の悪循環に立ち向かう思想を得るのではないでしょうか。わたしがここで想起したのは死刑制度です。テロとそれへの報復は、殺人とその犯人への処罰を思い出させます。もしもわたしの子どもが殺されたとして、わたしは犯人を死刑にしてくれるようにと願うだろうか? わたしは死刑制度には反対です。制度としての死刑には反対だけれど、敵を討ちたいという心情を否定するものではありません。遺族が犯人を殺してしまいたいと思う気持ちはよくわかる。絶対に許せないという気持ちも。アメリカでの事例だったと思うけれど、ある死刑囚が死刑になった翌日に被害者の遺族が自殺したという出来事がありました。たった一つの例かもしれないけれど、「憎い犯人が死刑になったところで、被害者遺族は救われない」ということを示していると思います。わたしは、わたしの子どもを殺した犯人が死刑になろうが自分の手で復讐を遂げようが、子どもの命は還らないということを知っています。報復の空しさも。結局わたしは救われないということを。ではどうすればいいのか? あれこれ考えたけれど、結局「赦す」しかないという結論に達しました。ブッシュとフセインが理性的に話し合って和解するとはとうてい思えません。彼らの「理性」や「理屈」のあり方が異なるから。そしてまた、彼らが愛し合うなどということも想像できない。だが、赦すことはできるのではなかろうか。そう思いました。「愛せなくても赦すことはできる」。「赦す以外に解決の道はないのでは」。今、そう思っています。