お賽銭が飛礫となって飛ぶ

日本とは何か  日本の歴史〈00〉蒙古襲来―転換する社会 (小学館文庫)網野善彦を継ぐ。僕の叔父さん 網野善彦 (集英社新書)
「一人ジャーナリスト・武田徹」は今年も冴えている、そんな予感に満ちた彼の1/2のブログであった。『初詣と選挙を比べるという思考実験』は此の国の根底に横たわる問題に拡がっていく。中々考えさせられるカキコでした。
◆新年会で身内がそろったが、話題の一つに初詣の人の多さであった。ぼくは石清水八幡宮まで、歩いて五千歩男山を登って、山頂にある神社にお参りしてのですが、正面から前へ進むと、長時間待たなければならない。ここは一人だったので、身軽さで左の側の端まで行って、蟹のように身体を横歩きして、お賽銭箱すれすれまで、進んで行きました、空中にお賽銭が飛ぶ。中沢厚中沢新一の父)著『つぶて』(法政大学出版会)の飛礫(つぶて)のように、前に陣取っている善男善女の垂れた頭に当たってもいました。ぼくは要領よく横入りして何のトラブルもなく待ち時間もなくお参りしました。
◆お御籤を引くと、棒に番号を書いている、老眼を忘れたので、隣にいた女の子に見てもらうと、14番、これは僕のラッキーナンバー(1/14が誕生日)なので、やったぜ、ベイビーとガッツポーズをしたが、末吉でした。まあ、いいか…。
◆今、読んでいる『僕の叔父さん 網野善彦』(オリオンさんレビュー)中沢新一が叔父さん網野善彦を熱く語り一気に書き上げた読み手も熱く読んでしまう見事な一冊です。厚が「つぶて」を再発見したのは1968年一月の佐世保米原子空母エンタープライズ寄港阻止闘争で学生達が行った投石をテレビで観て、厚は政治問題とは別の異空間で共振する。子供の頃、行った投石合戦に思い至り、民族学事典の『菖蒲切り』に行きあたり、上記の『つぶて』の刊行をみたのですが、その石投げの波紋が徐々に拡がり、網野史学へと収斂されていくのです。その道行きを子供の頃から父と叔父さん達の談論を聞き育ち感化されて甥っ子新一も宗教学者としての道を歩むのですが、中沢一家のトランセンデンタルな志向性は家風そのものであったんだと、納得しました。『つぶて』は『蒙古襲来』に結集して網野史学が誕生すると中沢新一は書く。

飛礫は十世紀の末から文献に出てくるが、鎌倉時代にしばしばおこった諸社の傲訴のとき、はげしく飛礫を打っている。日本だけでなく朝鮮でも古くから「石合戦」が盛んで、朝鮮に出兵した豊臣秀吉の軍は、民衆の投石による抵抗に苦しんだという。

鶴見俊輔『一人大衆』と原田さんは言う。武田徹の『一人ジャーナリズム』と言い、中沢新一の言いたかったことは、

網野さんの歴史の「学」では、それが飛礫を飛ばす悪党や、無頼な人生を送る博打打ちや、性愛の神秘を言祝ぐ路傍の神様だとか、大地とともに生きる民衆の中に、そのトランセンデンタルは宿るのである。それは言ってみれば「日本国」を抜け出ているアジール(避難所)だ。アジールは権力が手を触れることのできない空間である。つまりそれは権力の思考を離脱している。そういう空間に立つと、人は「日本国」というものさえ抜け出ていくことになる。そしてこの離脱によって、その人は逆に列島に展開された歴史のすべてを見とおす力を獲得することになる。

◆このことであろう。ぼくも又、『一人カラオケブログ』を更新している。まあ、一円玉ぐらいのお賽銭、石投げぐらいの功徳はあるのであろうか?