君の感化によって俺を黙らせよ

保坂和志さんゴダールの『映画史?』(筑摩書房)から一部、引用して、メルマガでアップサービスしていますが、ぼくも、ちょいと、気になるところを引用してみました。(旧ブログより転載)

映画館のなかでも、人々は黙り込んでいます。スクリーンのうえでしゃべる人たちの言葉を聞いているだけです。映画館を出ても、自分の知らない隣人にあえてなにかを話しかけようとはしません。しかも人々は反対に、話しかけないことが表現することだと思いこんでいるのです。私が思うに、《なかから外に出すこと》である《表現》と《外からなかに入れること》である《感化》の間には(ものごとは単純に考えさえすればいいのです)、ある違いがあります。また、ひとつの関係があります。コミュニケーションが可能になるのは、なかに入れられたなにかがもう一度外に出されるときなのです。そしてこのことこそ、私が今、より意識的でより明確なやり方でしようとしていることです。それに私は、人々は概して、こうしたことにほとんど関心をもっていないということに気づきました。人々は反対に、自分を表現したいとばかり考えているのです。でもその場合、相手が自分の言葉を聞いていなければ、厄介なことになります。相手が恋人であれば、《君はバカだ》などと言ったりしなければなりません。そして口論になります。政治家たちと同じように、《俺にしゃべらせろ》などと言ったりするわけで…… でもまた、《[君の感化によって]俺を黙らせろ》という側面があってもいいはずなのです……ー67頁

この一節を旧ブログから転載したのも、友人からメールで、他者との関わり合いの困難さが益々加速度を増したと感じるからです。別に日本語の喋れない人とのコミュニケーションだけでなく、身内同士でも、深い亀裂が生じている例証は珍しくない。恐らく、その一因に「自己表現病」という他者の言葉を聴こうとしない前提でしか支えきれない貧しい<私>が横たわっているのでしょう。本来、自己表現は他者との深い関わり合いを想定した交換、交歓だったはずである。『感化』による沈黙から迸る表現だったはずなのに、今や、「自己表現」が自己防衛のための胡散臭いものになれ果てている。

四谷シモン『人形作家』(講談社現代新書)によれば、彼のアパートの台所の床に新聞紙を敷き詰めて、『耳』の制作に勤しんだ彫刻家三木富雄は「耳」シリーズで発信でなく、ず〜と、受信し続けている。「君の感化によって俺を黙らせろ」のゴダールのフレーズは三木の耳の拘りであろうか。松岡正剛監修『情報の歴史』の昭和38年、1963年、ぼくが19歳の青春の項を覗くと、この年、三木富雄はアルミニウム「耳」シリーズ発表と記述されている。この時代、人々は「良き耳」で世界の声を聞こうとしていた無垢さを持っていたのであろうか? ケネディ暗殺、日本初の原発成功、大江健三郎『性的人間』、柴田翔『されどわれらが日々』今村昌平「にっぽん昆虫記」、少女コミック誌創刊、テレビでは「鉄人28号」、「鉄腕アトム」、大鵬が八場所連続優勝、ヒッピー文化が全米に拡大、ビートルズ「抱きしめたい」、ビーチボーイズ「サーフィンUSA」、ハーバマスの『理論と実践』、飛鳥田一雄横浜市長に就任、三島由紀夫をモデルにした細江英公の『薔薇刑』、舟木一夫「高校三年生」、梓みちよ「こんにちわ赤ちゃん」などと、そうか、ぼくの青春はかような環境から感化(アンプリメ)されていたのだと、……

今此処で、このブログから自己語り(エクスプリメ)しているぼくは還暦を超えました。第二の「こんにちわ赤ちゃん」になったのだから、「耳」から「口」に変換したからと言って、みなさん、許してくれると思うけれど、「聞き耳」持ってくれるかな?でも、やっぱ、まだまだ、ぼくは君に感化されたい。感化される至福を得るためなら、沈黙します。