ポップ・書評・解説

◆とみきちさんのブログで「書評の立ち位置」なるページがあり興味深く読ませてもらったが、日垣隆さんは『日本につける薬』でプロとして、書評の依頼を引き受ける条件としてこんな箇条書きをしている(81頁)。

?本は自分で買い、自分で選ぶ、?自分の信用を賭けるに足る、心から薦めたい本しか取り上げない、?書評で取り上げる著者の他の本は、すべて読む、?その本のなかで主な舞台になっている場所に私が行ったことがない場合は必ずそこへ足を運ぶ(それは自分の体験的欠落なので当然自腹)。/以上である。おかげで、たいていの編集者は二の足を踏む。

◆いや〜あ、たか〜いハードルですね。でも、ホンマカイナと思ってしまうけれど、ぼくは素直なので信じます。(旧ブログより2004.4/28)
ところで、鹿島茂さんが、『解説屋稼業』(bk1拙レビュー)何て、とても刺激的なタイトルで、いわば、「ポップ、書評、解説」を横断するものですが、そう言えば、書評本は、当たり前で、珍しくないが、文庫本の巻末にある解説を集めて「解説本」が上梓されたのは、どうやらこの本が始めてらしい。去年、話題になった例の「あらすじ本」は勿論、書評でもないし、解説にちょいとばかし近いものかなと、思ってしまうが、やっぱしそんな安易なものではなく、「解説」といいようがないのであるが、著者による「解説屋の解説」による解説文法を紹介します。どうも、このジャンルは日本人の発明品らしい。そうであるなら、手書きPOPも、腰巻(帯)も日本独特の発明ではないか?

?解説はオードブルであると同時にデザートでなければならない。つまり、読者が本文を読む前に、その概要をつかむための紹介的役割を果たす一方、本文終了後に、感想を確認したり、理解を深めたりすることのできる批評であることが要求される。
?解説は、本文の解説であるばかりか、著者の本質への理解を含んでいるべきである。なぜかというに、その解説によって、読者が著者の本質を捉まえ、著者の他の本にも興味を持つことが最も望ましいからだ。
?解説は、それだけで一本のエッセイとして読めるような構成力を持っているべきである。いいかえれば、解説のみを読むためにその文庫を買うという読者がいるぐらいであることが理想的である。しかし、解説は解説者の私的エッセイであってはならない。 
?解説は、著者を勇気づけて気持ちよくさせ、なおかつ読者をおもしろがらせる必要がある。たんなる著者へのおもねりはかえって読者をシラケさせる。<< 
◆講釈はそのくらいで、実践ではどうかと、藤本ひとみ『侯爵サド』の解説を本書で読んだが、この女流作家のことはまるっきり知らないのに、鹿島茂さんの「解説」で俄然、読みたくなった。
ところで、「季刊・本とコンピュータ」で保坂和志さんは本の帯(腰巻)について、もっと、時間をかけるべきだと言っているが、その通りだと思う。通常、2,3日のやっつけ仕事らしい。帯はいわば、出版社で作成したPOPのようなもので、書店の現場感覚ではその重要性は認識されているが、意外と編集者達は軽く考えているらしい。そんな隙間をついて、書店員が手書きのPOPを作成しているとも言える。そうそう、保坂さんも解説は結構、書いている。書評と解説はやはり違うのでしょう。評論とも勿論、違う。なんだろうなぁ…。