フェチ/ナチズム/大阪市役所/NHK

Triumph of the Will [VHS]Triumph of the Will [DVD] [Import]夜と霧 新版夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録「欲望」と資本主義-終りなき拡張の論理 (講談社現代新書)
『夜と霧bk1レビュー』『池田香代子インタビュー』
何故か日経連載中の渡辺淳一の愛?ポルノ?小説『愛の流刑地』をさわこさんが『吟遊旅人BBS』でカキコしたら、別のエントリーで、殆ど同時にshohojiさんが、「昨日はアウシュヴィッツの解放60周年の記念式典で、テレビでずっと生放送でした。」とヨーロッパからカキコがありました。

◆僕自身、両方のコメントに触発されて、レスをしていたら、渡辺淳一から谷崎潤一郎川端康成と連鎖して、脳内がマゾヒズムフェティシズム、ナチズムとブレンドして以下のカキコをしましたが、おしょうさんからのレスで<佐伯啓思『「欲望」と資本主義』(講談社現代新書 1150)の第6章は「ナルシシズムの資本主義」で、80年代日本経済の「成功」を一つの題材に、まさに葉っぱ64さんが感じ取っていらっしゃることを述べています。> とコメントされました。それで、ぼくの備忘録としてもこちらに一部、転載しました。ネットの良さは、こうやってライブで学習できるっていうこともありますね。佐伯さんの本は読んでいないのですが、購入予定にチェックします。でも、これ、図書館であるなぁ…。ゴメン。

下のエントリーを強引に結びつけるみたいですが、さわこさんのいう谷崎の悪魔主義、耽美主義(マゾヒズム)と川端の周辺に向かうフェチシズムは近世と近代との違いがあるかもしれない。川端のフェチは近代の産物のような鬼っ子ではないか、フェチシズムとナチズムは隣接している。戦後民主主義が理念として近代の産物であるが故に、そのような鬼っ子を再生産するOSが組み込まれているのではないか、谷崎の悪魔主義は「どこかのびやかであっけらかんとしていますね」と言うさわこさんのコメントは 、最近特に、近世にこの閉塞感の鍵穴を求める、例えば、田中優子あたりの江戸時代に対する憧憬にある種、説得力を与えますね。ただ、自信を持って言えることは江戸時代にあってはナチズムは生まれないということです。最近、ドストエフスキーの『死の家の記録』を読みましたが、そこの収容所とナチの強制収容所とは全く、位相っていうか、バックグランドが違う。多分、ツアーの権力はフーコーの言う「死の権力」であって、ナチスの権力は「生の権力」なんだと思う。それは奴隷とフィギュアとの差異ではないか、奴隷は少なくとも生きものである。だから、死の権力の発動もある。でも、ヒトをフェチの対象として物神化出来るのは近代の概念操作なくしては無理だと思う。人口としてヒトを捉える。
「生の権力」とはそういうことでしょう。フィギュアとして排除したというより、無視したのです。「見えないもの」なのです。そんな狂気は近代の産物です。秦の始皇帝ヒトラーとは違うのです。ブッシュでもプーチンでも、ヒトラーに成り得る可能性がある。でも、秦の始皇帝ヒトラーになれない。そういうマッピングが僕の中にあります。あくまで、ぼくの今、頭によぎった仮説です。

その前のカキコです。

西欧民主主義の極北にナチズムを引き寄せるものがある。そこのところを冷静に見つめる必要があると思う。民主主義とナチズムは同じ位相、回路にある。だからこそ、危惧を感じるわけでしょう。その回路を切断するには“民主主義を超えて”の概念をと、大澤真幸の『文明の内なる衝突』をテキストに『恥』について考えたわけでしょう。そのことを宿題としてブログでも継続したカキコをしているのですが、困難な課題だと思うが、方向性は間違っていないと思います。ナチズムを政治問題として取り上げても、根本的な解決にはならない。ゾンビのように蘇る。

◆ぼくが一番、腹立たしく感じるのは自分自身を無垢、無罪、無謬性で善人顔で正義を語る人です。そういう人が最も危ないという認識があります。やくざで悪人だと自称する鶴見俊輔さんが、「人を殺すことは悪い」と一気で言える人間になりたいと八十歳を超えて言える屈折度こそ、傾聴したいと思います。『自虐史観』が槍玉にあがって、攻撃を受け、腰砕けになった言論人達がいましたが、『自虐』の洗礼を受けない言論はそもそも、信を置くに値しない。そこを踏みとどまって、『正義の加虐』の対処法こそ、検証すべきだと思います。左も右も関係ありません。
◆まず、自分の頭で考えたいものです。処世術として言葉を弄ぶ愚だけは厳に戒めたいと思います。まあ、これは僕に対する縛りでもあります。しかし、殆ど既得権のない僕は縛りがあってもなくても余り影響がありませんが…。既得権のある人達は総論では分かっていても、各論では実行出来ない。大阪市役所の問題は日刊紙のヘッドラインを日々飾り、恥ずかしいことになっていますが、こう言う時こそ、労組が積極的に動きまわるべきですね。不当利得を既得権とする法解釈なんてありえないのだから…。しかし、長年、放置していた大阪市民のだらしなさにも反省すべきところがあるが、市長もひどいですな、僕の友人が先日、大阪市役所に行って、市長に面談を請うたが、ダメで(当然でしょう、笑い)、多分、苦情承りの担当者だと思いますが、その役人に今回の市役所問題に苦言を呈したとのこと。かような行動は即効性がないでしょうが、一人でも多くの市民が何か問題が起こったら、行政の窓口に行く。それが第一歩でしょう。
NHK問題もとうとう、50万人近い人が受信料の不払い手続きをしましたね。71億円の減収ですか、こうやって、ちゃんと意思表示する人がまだまだいるということが、救いになります。去年、自己責任が流行り言葉で巷に流布しましたが、自己責任を問うのはまず政治家に対してであるのは当然です。NHKの会長は本当に責任を感じて辞めたのですかね?責任を感じていなければ、辞めて欲しくない。不払いが百万人超えて何百億円の減収になろうが、辞めるべきでない。逆に責任を感じているのなら、不払い騒動がなくとも辞めるべきでしょう。責任とはそういうものです。