A.L=ウェバー/保坂和志

ミュージカル『CATS』をDVDで観ました。原田さんの“レビュー”を読んで観たくて堪らなかったのですが、Pさんからお借りして観ることが出来ました。ありがとうございました(封を切っていなかったので、Pさんはまだ観ていないのです。申し訳ない)。みなさんも原田さんのレビューを読むと観たくなります。ぼくのコメントは割愛。
去年の六月の読書会で、保坂和志著『生きる歓び』をテキストにしたのですが、作家の細やかな描写で浮かび上がる子猫に惹き込まれてしまいました。それは生そのものの中心に向かう。

このまま死んじゃったとしてもそれはそれでしょうがないのかもしれないと思ったことが助けるのをあきらめたことは意味しない。一所懸命助けようとして手をかけて、それで死んでしまったのならそれはそれでしょうがないーという意味とも違う。「このまま死んだとしてもそれはそれで仕方がないのかもしれない」と「助けようと何かをする」ことは、それぞれ心の別の場所にあるもので、だから、助けようとどれだけ手を尽くしたか自分でよくわかっていても、「それはそれで仕方ない」と思えないことだってある。白血病で死んだチャーちゃんのときがそうだった。だから「一所懸命やってあげたじゃない」という言葉は、本人に対しては猫が死んでしまったことの慰めにはならない。その現実の慰めにはならなくても、そういう風に気にかけてくれる人がいるということは、別の意味での慰めにならないというわけではない。/子どもの頃からのことをこれだけいっぱいに忘れずに持ち歩くことのできる人間の心は、ディープブルーのような大きな部屋いっぱいに占めるスーパーコンピュータでもいまのところシミュレーションできないくらいなのだから、全体を「AだからB」「AでなければBでない」というようにくくってしまうような簡単な構文では絶対に表現できない。心は微妙なのではなくて、それぞれはけっこう単純なものが、いっぱいに詰まって錯綜している。しかし、通常使う文章が、心の錯綜のようなものをモデルとしていないから、一見すごく込み入ったことを言っているように見えてしまう。私もここで込み入ったことを言ったわけではない。二つは別のことだというのを強調しただけだ。ー39,40頁ー

…軽々しく何でも「善悪」で分けてしまうことは相当うさん臭くて、この世界にあるものやこの世界で起きることを、「世界」の側を主体に置くかぎり簡単にいいとも悪いともうれしいとも苦しいとも言えないと思うけれど、そうではなくて、「生命」を主体に置いて考えるなら計ることは可能で、「生命」にとっては「生きる」ことはそのまま「歓び」であり「善」なのだ。ー45頁ー

 
参照:保坂和志さん家の〔ちゃーちゃん〕『猫遊録』『猫に時間の流れる』(新潮文庫)『世界を肯定する哲学』(ちくま新書)
『読書会2004,6/20』

皿の上で子猫の胴の半分かそれ以上の大きさに広がった赤身が、普通の「食べる」のと違う、別のメカニズムで飲み込まれていくように、スルスルスルスルと子猫の体に入っていった。ー保坂和志著『生きる歓び』より