柄谷行人のモヤモヤ/ワクワク/クラクラ

二葉亭四迷の『浮雲』を読みました。新鮮な読後で古臭さは感じなかったです。偶に、何らかの切っ掛けで、明治文学を読んでみると学校の授業で書名、作家名だけは良く知っているのに、逆ににそれが徒となって、あらすじ本のようなもので、お茶を濁して読んだ積りになってしまっている。そんな穴ぼこ読書がぼくにもある。大体、日本近代文学の源流とも言える名作を不明にも、ちゃんと読まなかったことを恥じ入るばかりです。でも、若い頃、ちゃんと、読んでも共振しなかったかもしれない。明治文学は大人の文学なのだろうか?そんな戯言を言うぼくは単に貧しい青春の読書体験が露呈するだけかもしれない。柄谷行人は「リズム・メロディ・コンセプト」の論考で、YMOの細野晴臣を引用して…

現在、音楽はくさる程つくられているが、三拍子そろったものはあまりない。その三拍子とは、?下半身モヤモヤ?みぞおちワクワク?頭クラクラである。??はざらにある。?は端的にいえばリズムであり、?は和音、メロディということだが、?はクラクラさせるようなコンセプトである。これはアイディアの領域を超えた内からつきあげてくる衝動のようなものであり、私の最も大事とするもので、これを感じたものには、シャッポを脱いで敬礼する事にしている。

 『浮雲』で感応したのは、??のリズム、メロディであり、?のコンセプトでないことはわかる。でも、例えば、舞城王太郎『九十九十九』の?のコンセプトに共感して、頭クラクラになりたかったのですが、その??のあまりに暴力性の不協和音にぼくの下半身モヤモヤ、みぞおちワクワクがゲンナリして、最期まで読みきることは出来ませんでした。だから、せめて??の閾がクリアできたら、まあ、いいではないかと僕なりに満足しているのです。この論考で柄谷は小林秀雄の“書評”はいわばリズムとメロディだけで成り立っていると批評しているのですが、?の内的衝動は、??のコードというか、フレームで支えられるものでしょう。しかし、表現の前提には?のエネルギーが欠かせないものではあるだろう。かれはこう言っている

このコンセプトは、小林秀雄が空疎なものときめつけて排除して行くような「概念」ではなく、「……内からつきあげてくる衝動のようなもの」である。それをいわゆる「概念」と混同してはならない。むしろ初期の小林秀雄の批評が画期的だったのは、そのようなコンセプトがあったからだ。

なるほど、これが頭クラクラなのです。浮雲には未完に終わったことがあるにしても、?の根っこはあると思うのです。??に関してはぼくが年取ったのか、身体で感応出来ました。若い人が感応するかどうか、わかりませんが、?の根っこを感じ取る事が出来るかも知れません。(旧ブログ転載)
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