生きがい論を超えて、『いのちの初夜 (角川文庫)』『定本北条民雄全集 上巻』

ぼくの読書傾向の流れは自分なりの定点がある。ぴぴさんが一人読書会でフーコーバタイユレヴィナスアガンベンを取り上げるといった壮大なチャレンジを敢行していますが、僕は体系だって読みなすエネルギーに欠けるので、僕の定点からこれらの著作集を摘み食いする振る舞いにどうしてもなってしまう。酒井健内田樹大澤真幸を通してこれらの思想家を知り、読むことをもっぱらにする迂回路になっていますが、僕の定点はある意味で明快です。武田徹が『「隔離」という病い』、『偽満州国論』、『「核」論』の三部作で追跡しているモチーフも、そういうことなんだと思う。それは大文字としての国家、民族に回収されないで、ユートピア論の排除の暴力性を暴き、“ただ生きるだけが生の目的”と“今”この刻の驚きを発見し、驚き(感動)が美しさを呼び込み、そのことで世界の秩序(合理性)を知る。胡散臭い「生きがい論」に足を引っ張られてはならない。そんな、「生きがい論を超えて」の定点から「民主主義」も考えるということです。そんな関心で『「隔離」という病い』の重要なテキストとして北條民雄の『いのちの初夜』(角川文庫)を今日、購入しました。

光田と神谷に通底する構図、それはユートピアを夢見て、それを志向する動きが排除に繫がってしまうというものだ。ユートピアの実現に貢献することにこそ人生の意味があると信じ、積極的かつ献身的活動する人の活躍によって、その排除は時に暴力的なまでの激しさを持つようになる。それは戦前日本の隔離政策の激化が例証している。/なぜ献身的な活動をするのか。それはユートピアの実現こそが、今の自分の人生の意味を成就させる審判の時になると考える、終末論的思考をそこで行っているからだ。ユートピアの実現に向けて歴史を転がすことこそ自分の使命と考え、その作業に生きがいを感じる。生きがいを感じているからこそ、そこでさらに献身的な没頭がありえる。この場合、生きがいは社会を一つの方向に進める動きを促進させる一種の触媒、牧人が活動するための糧、そして牧人の熱意を合理的に説明する装置となっているのだ。こうした構図は神谷により見取りやすい。/個人が個人の範囲内で理想の未来社会=ユートピアを想定し、その実現を人生の目的として活動すること自体に罪はない。しかし、忘れてはならないのは設定された目的は、所詮、主観的なものに過ぎないということだ。ある程度多くの人が同じ方向を向き、足並みを揃えることで同じ思想を想定することはありえる。しかし、それは偶然、ひとつの理想像を多くの人が共有しているというだけであって、「主観的な夢」としての脆さから逃れられるものではない。仮構された終末にむけて目的論的に生きる人生がいかに脆いかを、僕たちはすでにK・Nの症例を見ることで明らかにしてきた。/しかし、そうした脆い理想像を信奉する人が、仮構性を忘れてその唯一絶対的な正しさを主張し、自分たちとはちがう立場の人々=他者を排除してゆくことがありえる。そして時として酷薄なまでの暴力を用い、その絶滅を望むようにすらなる―。そんな轍を踏まないためには、ボタンの掛けちがいをする前の段階にさかのぼって、軌道修正をする必要がある。人生に意味を仮構する前の、そう、北條民雄が示したようにただ生きることだけが生の目的なのだと考える位相にまで降りて行くこと。そこから人の生の在りようをとらえ返すことが必要なのだ。/生は多様である。病に落ちる生もあれば、天寿をまっとうできる生もある。生の置かれる環境もさまざまだし、複数の生の出会いがあらたに多様性を育む。そのような生の多様性の上に人生の理想像が多彩に描かれるべきなのであって、その順序が逆であってはならないのだ。(後略)−『「隔離」という病い』(188頁〜)−

武田さんは難しいことを言っていない。すごく当然のことです。でも、“ただ生きることだけ”の生の目的は?となると、レヴィナスの「他者」とか、ぴぴさんの一人読書会でネット参加しているおしょうさんの言う「他力」になるのか、そこまで降り立つと底が抜ける、「穴」が驚きを生み、世界が出現し、すべてを肯定していいんだと、吼えることが出来るのか?橋本治は『人はなぜ「美しい」がわかるのか』(ちくま新書)で「“美しい”とは他者のありようを理解することだ」と述べる。“他者の発見”の感性を持てば人間は充分に生きられる。それ以上、望むことがあろうか?