merubook/超越系×動物化=去勢化

kuriyamakouji2005-03-28

宮台真司interviews
merubookを訪問したら、購入して積読状態になっている『宮台真司interviews』(世界書院、2005年2月)のエントリーがありました。東浩紀との対比でコメントをしているのですが、merubookから孫引用すると、腑に落ちる。

最近の僕は「援交少女たちを、高い流動性の中でも心の平安を保ちうる存在だと期待していたら、期待外れだった」と表現しています。実は、そのころまでは、「超越的な特異点――究極の意味――に帰依しないと心の平安が得られない」というオウム的な思い込みを中和するべく、「高い流動性の中でも心の平安を保つことができる」ブルセラ的存在を賞揚しようと思っていたんです。(p.392)

東浩紀の「動物化」はメタなんか、知ったことじゃあない、どうでもいい、泡のごとき生き方って言うのもメタになるが、そんな特異点も無視して「まったり革命」してしまう。その辺の認識で共通部分があるみたいですが、極論すれば、宮台はそんな認識が甘かったと臍をかいたのでしょう。その地点に立った「僕は政治が嫌いなんだ」と言いつつ、ロビー活動の重要さを奨励する彼の政治的プラグマティズムの身振りは四方田犬彦の『ハイスクール1968』と同様な体験があったと、メルさんは読み解いているみたいです。

二人とも「祭のあと」の挫折といえば良いのか、要するに「政治」の挫折を中学・高校時代に味わっていることだろう。宮台氏ふうに言うなら、二人とも「非日常」から「日常」へ戻ることができなかった、というわけだ。

東浩紀の「動物化」は工学を通して、森岡正博は「生命学」を通して、「まったりした無痛文明」をとことんまで突き進むしか道はないと観念して、超越系に飛んでしまう道の危険性を回避したのでしょうか、メルさんは、宮台真司四方田犬彦の方に心が傾斜しているが、僕もそうだろうなぁ…。でも、動物化=去勢化を「工学的」「生命学的」に捉えて、「新感じる」に接続するのは可能でないかという見取りはあるのです。「オウムも嫌」、「まったりも嫌」のキャッチボールの往還で生きるしかないのか。こうやって考えるとやっぱし「内田樹×宮台真司の対談」、「森岡正博×東浩紀の対談」は噛み合って面白いものが出来るような気がします。出版社で企画して欲しいです。しかし、超越系×動物化=去勢化ってくくると、代々木系×反代々木系みたいですね、でも、誤解なきようこの代々木は代々木忠さんの代々木ですから、代々木さんはアダルト、性愛の超越系ですからね。そうすると、反代々木系松沢呉一さんなのですかね、松沢さんの愛読者に訊いてみたいものです。呉一は呉一番の男から由来すると聞いたことがありますが、本当ですかね、そうすると、僕と同郷になってしまう。まさか!

◆メルさんのブログ“merubook”を紹介しながら、僕なりの『宮台真司interviews』を読む前の気構えをちょいと書いてみました。「メルの本棚」はDVDも含めて僕が読んだ、観た又は、これから読むリストにあがっている資料が一杯です。だから、こんな風にしてメルブログを覗くことによって、僕自身の考えを修正したり、補強したり、とても頼りがいのあるネットテキストなのです。
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