応答/要請

kuriyamakouji2005-04-02

イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告日常・共同体・アイロニー 自己決定の本質と限界

宮台 たしかに自己を越えるものはあるでしょう。これを共同性や伝統といってもいい。ただし、それについて古くから対立するふたつの立場があります。より古いのが、自己が自由に振る舞うときにこそ、その振る舞いに自己を越えるものが刻印されるとする立場。より新しいのが、自己を越えるものに意識的に服さなければいけないとする立場です。/古典ギリシャの思想はもともと前者でした。でもペロポネソス戦争でアエネが敗北、勝ったスパルタにも貨幣が流入し、ギリシャ世界がアノミーに陥って以降、後者へと以降します。それを象徴するのがアリストテレスの最高善概念ですね。フィリア(友愛)だけでは人はポリスのために戦わず、むしろフィリアのために戦地から逃げる。/だからコイノニア・ポリティケ(政治共同体)への貢献をフィリアよりも何よりも優位な価値とする、と。ペロポネス戦争以前、ツキジデスが書き留めたアテネの政治指導者ペリクレスの演説を読むと、「〜せよ」「〜すべし」といった当為命題が一切なく、すべて「私たちは〜する」「私たちは〜である」という事実命題だけなので、驚きます。自発的に振る舞うことでおのずと徳が発露してしまうようなものとして、共同体への貢献が考えられていたからです。/『イェルサレムアイヒマン』で軽妙な文体をもちいたことを、ユダヤの娘らしからぬ振る舞いだとショーレムから批判されたアーレントが、この論理を使って反論しています。自分のユダヤ性は自分のあらゆる振る舞いに、つねに、すでに刻印されている。ユダヤ的たり得ないようなユダヤ性などに、何の価値があろうかと。ー宮台真司×仲正昌樹『日常・共同体・アイロニー』(双風社)42頁よりー

◆宮台さんの理解は「本当に自己を越える大いなるものがあるのなら、自己決定で振る舞うときにこそソレがあらわれる」です。その通りだと思う。

宮台 もともと選択の対象であり得ないはずの伝統や共同性も含め、何もかもが選択の対象となる再帰的近代では、自己決定を前提としたうえで、応答が返ってくることを信頼して呼びかけるしかありません。言い換えれば、表出の連鎖を信頼するしかない。伝統が辛うじてあるなら、呼びかけに応じる自己決定的な振る舞いにこそ、伝統が刻印されるはずです。(43頁)