五体投地

「風の旅人の編集長ブログ」で憲法について連日カキコがありますが、憲法を支えているものは底の抜けた非合理的なもの語りえぬものであろう。
公法であれ、私法でアレ互いに合理性の網の目で支えあっているが、結局、最後の最後、

「風の旅人」のFIND THE ROOTを、「五体投地」といったのは、そういう意味です。チベットの高地で、地面に身を投げ出しながら、一歩一歩、尺取り虫のように進んでいく人間にとっての”拠り所”は、宗教教典の条文ではないでしょうし、もちろん、誰かとその”拠り所”の優劣を競う意味もありません。拠り所は、”祈り”であり、それが拠り所であるからといって、スタスタと足早に目指す方向に向かって辿り着いて安心するのではなく、一回一回、目指す方向に自分の身体を投げ出す、一見、不合理とも見える行為の積み重ねのプロセスそのものが大事であり、もしかしたらそれが全てということです。

拠所は翻訳不可能な言葉でしょう。それを神の言葉と言ったとしても、翻訳されれば、神の言葉でなくなってしまう。そんな危うさ、非合理の混沌を包摂したものなら、それは祈りとしか言い様がないのでしょうか、かって、憲法学者で故田畑忍の授業を受けたことがありますが、教授は常に憲法には改悪はない。憲法改革は改正のみである。そこに価値判断を先行させるのですが、田畑忍の歴史観が動かないものとしてそれを正とするなら、その歴史観に違和を感じていると弾き飛ばされる。そんな疑問を授業中に感じましたが、教授の熱情は凄まじいもので、ある学生がそんな疑問を呈した時、結局、「正しいものは正しいんだ」とその自信の説得力に、そのある学生や、僕はニヒリズムに毒されているのではないかと、多少、落ち込みました。でもあんな風に無垢に、ある歴史観を信じることは僕には出来なかった。ならば、宗教なのか、それとも違う。“廃墟としての祈り”、そんな意味不明なものが、澱のように裡に沈殿しているのは、何とか感じることが出来ます。「五体投地」は言葉というより祈りですね。
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