写真と絵画はどう違うの?

佐伯剛さんが『写真と絵画』というエントリーをアップしている。過日、高校の時は写真をやっていて、美大では油彩科に在籍している学生から間接的に聞いた話ですが、、「絵をやっている人間は考えないやつが多い、風の旅人のような雑誌に関心をしめさない」、「でも、写真やデザインをやっているやつは結構、本も読んでいるし世界に関心を持っている、多分、風の旅人に共振する接点がある」、っていうような弁を述べたらしい。
その学生がどういう文脈で同じ教室の油彩の連中を批評したのか、その詳細はわからないが、彼の中に本来、絵は“見ること”によって画家の世界観が問われるのに、彼らの世界観は限りなく極少で、その等身大でしか見られる側に関心をもたない。その絵画は世界を写さないポートレイトではないかっていう苛立ちがあるのでしょう。
恐らく絵をやっている連中は佐伯さんが言う≪20世紀以降の絵画芸術の場合、画家が肉眼で見て、その時に生じる<見る側の身体感覚>を忠実に表現しようとする試みのなかで作品が生まれる。≫という自明性を共有している。近代絵画の文脈を引きずって画家の文体がまず問われる。画家の世界観が露呈されることから逃れることは出来ない。
しかし、どうやら画家の卵達の多数派はそのような文体に関心を持たない。“見ること”のポジションも“見られる側”への熱い関心もないとしたら、自己発見という小さなエリアの中で戯れることでしかないのでしょう。明るくて可愛いもの、癒されるものを希求するが、わけのわからぬ場所へ連れて行ってくれる危険地帯は端から拒否する。
しかし、にも拘らず写真科やデザイン科の連中は少なくともそういう危険地帯に関心を持っている傾向がある。だから、冒頭に上げたように油彩の連中より、まだ、「風の旅人」に関心を持つ度合いが高いとの彼の批評になるのでしょう。
≪しかし、写真の場合、見ているのは機械であり、撮影者の身体感覚が作品に写るのではない。写るものは、写される側の何ものかが光の層となって、フィルムに焼き付けられるのだ。≫と佐伯さんは書くが、少なくとも見る側の自分自身が焼き付けられる縛りから自由になって見られる側(写される側)に重心が移して世界(他者)と対峙しなくてはならない、そのことが、油彩をやっている連中に比べてアップ・トゥー・デートな物事に鋭敏になり世界にアンテナが繫がる。そんなマッピングを僕なりに短絡的にやってしまったが、そんなに的外れでないと思う。
彼が教室の連中を見て、見ること”の縛りがハンディとなって写真を超えることが出来ないことの意味は、それは又、写真が絵画を超えることが出来ない事情を同時に物語っていることにもなるのでしょう。その位相では“見ること”はハンディでなく、恩寵でしょう。でも、肝心の画家にしろ写真家にしろ、閉塞した自意識の視点しか持ち合わせていなかったとしたら、何をか言わんやです。
思想史的にはポストモダンの状況も関ってきていると思いますが、傾向として油彩科の学生達が自分以外なものに関心を持たない。厳密には自分の中に他者を発見しない自分に拘る寂しいもんですが…。
彼の弁で面白かったのは絵をやる連中の方が政治なり、社会なり色々と好奇心が旺盛だと思っていたのに、逆なんですね、画家には小説家のような文体は要請されないのでしょうか、そんなことはあり得ない、文体っていうものでなくとも“見ること”にこめられた再現のきかない一筆があるはずだ。それが創造行為でしょう。
でも、彼の観察では写真やデザインをやっている連中の方が“見ること”に過剰な文脈を持っている。
それで、彼は苛立っているというわけ。佐伯さんが結語として、≪”見ること”において、見られる側に関心を置く絵画は、写真を超えることができない。同時に、見る側に関心を置く写真は、絵画を超えることができない。≫という認識が生じたと書いていますが、
学生としての彼の実感は逆なんですね、見られる側に関心を置く写真がそのリアルな現場に拠所があるという確かさが、“見ること”も鍛えられて写真が絵画を超えている局面があるのではないか、そんな彼の批評は美大での狭い教室内の処世術としての手慰めに忸怩たる思いを持ったのであって、本来は佐伯さんの結語のとおりであろう。でも、“見ること”が鍛えられて表現が始るのは、多分、写真も絵画も同じでただその差異を強調した時、佐伯さんのコメントになるかもしれない。“見ること”と“見られる側”は同時に出現するものであって、分節化出来得ないものという理解が僕の中にあるのです。だから、そんなに絵画と写真が別のものだという観念があまりない。
それはそうと、今日NHKの教育テレビで茂木さんが写真について語るということです。
茂木健一郎 クオリア日記: 科学大好き土よう塾