見ること、薔薇に染まる物質と記憶(未読百冊?)

ぽまさんに薦められて前田英樹『絵画の十世紀』(NHKブックス)を読み始めたのですが、とても面白い、昨日、読了した茂木健一郎の『脳と創造性』にもつながりますね、オリオンさんのレビューによれば、小林秀雄の『近代絵画』の続編と理解している。帯に保坂和志の推薦文がついていました。こうやって信頼する人達のコメントがあると、気分が盛り上がります。

写メールやデジカメなど、視覚を記録する機械はどんどん進化しているけれど、私たちは撮るだけで見ていない。機械は<見る>ことを妨げ、私たちは<経験>として蓄積されない平板な時間を生きることになる。前田さんは、画家の感覚と思考に分け入り、<見る>とは世界が語りかけてくるものに向かって、自分を開くことなのだと教えてくれる。見えないものまで見ること、それが本当の<見る>なのだ。本書によって、世界の、人間の、物の、別の次元が開かれたと思う。

 脳科学者が見据えている創造性もそのような方向性にある。昨日は中之島の薔薇園を覗きました。カメラを持った同年輩のオトウサン、オバサンたちが見頃の薔薇を堪能していました。豪華絢爛な薔薇はやはり圧倒されますね、丸山健二が格闘技として庭つくりに精出す想いは無作法な僕には中々理解できないが、近づいて見れば見るほど薔薇の花弁の精妙さに溜息がでる。そんな僕の静謐さを破ってくれたのは見知らぬ七人のオバチャンたちです。「カメラのシャッターを押して下さい」、「はい、はい、」と腰軽のオヤジは二回、シャッターを押しました。

 ベルクソンは『物質と記憶』のなかで、「知覚と感覚との性質の差異」について、非常に詳細な論証を行っている。彼が述べるところに従えば、知覚の対象は身体の外に在るが、感覚の対象は身体のなかに在る。言い換えれば、感覚の対象は、身体それ自身である。身体は、感覚すると同時に感覚されるものでもあるだろう。たとえば、匂いであるが、私が嗅ぐコーヒーの香りは、鼻の粘膜から入って私の身体のうちに流入する。香りは身体を満たして、身体のなかに起こる諸変化と同じものになる。私が嗅いでいるものは、コーヒーの香りに違いないが、感じられるその香りは鼻の粘膜から一定の強度で拡がっていき、私の身体これはと区別しがたいものになる。私が感じているものは、コーヒーの香りであると同時に私自身の身体である。[…]
 だから感覚する身体は、知覚する身体とその存在の仕方において異なっている。身体には、二つの存在に位相があると言ってもよい。そのうちの一方は行動に向かうが、他方は世界の振動に貫かれてみずからも振動する。前者は自己を行動へと凝縮させ、さまざまに組織づけるが、後者は入り込んでくる感覚の強度を通して渦巻く流体になる。身体にこれらの二つの位相はは、いつも同時に働き、物質の流れのなかに<同じひとつの身体>を形成している。
 このことは、何を意味しているか、私たちは、行動する自分自身の主人公であると同時に、世界から無数の振動に満たされて在る。在ることと行動することの二重性が、私たちをこの地上で現に生きるものにさせている。「知覚と感覚との性質の差異」は、互いに逆向きになった生の二つの方向に由来する。これら二つの方向は、同じひとつの身体のなかにあって、身体の異なる動きを作り出す。私がコーヒーの匂いを嗅ぐ時、鼻の知覚はその匂いを他の匂いから区別して、私が取べき行動を準備させる。それがコーヒーだと判断させ、その判断をそれ以前の多くの判断と関係づけさせる。たとえば、これはあの時に飲んだうまいコーヒーだと思い、カップを手で引き寄せ、口に近づける。私の記憶が確かめられる。ここから私の知覚は、さまざまな一般観念の連鎖に発展していく。けれども、それと同時に、私の身体はコーヒーの香りに満たされ、香りの感覚そのものとなってそこに在る。(39、40頁)

 かような前振りからモネ→セザンヌを語ってマチスピカソ、ルオー、そしてジャコメッティへと四人画家の軌跡を通して二十世紀絵画について論考する。おもしろそうです。ところで、未読百冊のリストアップを継続中ですが、このベルクソン『物質と記憶』がありました、岩波版でなく白水社版で田島節夫の訳です。[66]番目でした。そのつながりでジャック・デリダの『パピエ・マシン上 物質と記憶』『下巻』も棚にありました。未読が多い、[67]、[68]です。
 そうそう、『のだめカンタービレ 12巻』が発売されましたね、読みました。