ある雑誌の終刊

 双風亭日乗の『本は売れるという幻想について』とウラゲツさんの『作家は年四回新刊を出さなければならないか』を連続して読むと入り口は違うけれど共通の問題意識をお持ちになっている。小田光雄さんあたりがよく書いていることですが、消費者/読者と峻別して語る必要があるでしょうね。
「武士は食わねど高楊枝」の近世から近代読者へと明治に接続し教養が「生きる糧」として必要であったし、近代化への駆動力であった。教養が敬意のツールでもあった。江戸であっても落語の世界の大家、隠居は少なくとも教養を熊さん八ちゃんに説教たれて尊敬を勝ち得ていた。だから教養の崩壊、近代読者の消滅と現代を素描する前提に近代においてはそのような教養が生きていたというより、前近代からそのような知者に対するリスペクトはあったと思う。
 それは多分、資本主義システムが稼動し花開き、すべてが等価な消費者として人口として計量される時代の流れで“本の商売”だけは消費者という言葉を使ってマーケットリサーチをしないで、読者という幻想でマーケットを考えたということに繫がると思う。
 だが、グローバリゼーションが拡大して競争原理があたりまえになり、教養でもたもたする余裕がなくなり、ズレが益々拡大して資本主義システムが内包していた問題が顕在化して、消費者としての読者に対峙せざるを得なくなったのでしょう。
 勿論、書き手はそんなシステムがどうであろうと、作品に対峙する。しかし、そのことは作家たるもの、見過ぎ、世過ぎに口を出してはいけないということにはならない。むしろ逆である。原稿料、販促、脱稿後に営業活動する衒いのなさは、むしろ積極的に推奨すべきでしょう。そのとき、読者(近代)という幻想を剥いだ裏側から消費者が顔を出すであろうし、せめて作品で資本主義のOSに守られた消費者の顔を揺さぶったり、一皮剥いてやろうとするあらたな野心が生まれるかもしれない。
そんな力のない作品は単に消費されるだけで、読者/作家という敬意が挿入される関係性でなくて、消費者/生産者っていう関係性でしょう。それはそれでよい、かってのカッパ商法角川春樹商法、幻冬舎商法などなど、そんな徹底性こそ、需要があれば、供給がある。資本主義のOSで欲望を捏造する。それは物凄く合理的でナットク出来る。
 そんなのは嫌だ!作家になった意味がないと野心を持続している人は金と縁のない人かもしれないが、少なくともリスペクトしたいという社会のコンセンサスは保持したい。それさえなくしてしまえば、なくしても構わないんだとノンシャラの消費者がどんどん増えれば、この世は廃墟に向かってまっしぐらっていうことに相成りますか。
 水無月になれば、ちょっぴり湿っぽくなるのですかね…。殆ど同時期、お三方の編集者ブログを読むと共通の想いが流れている。『季刊・本とコンピュータ』が終刊になります。その編集者ブログはアクセス数は五十万を越えて雑誌は終刊するけれど仲俣編集長は益々冴えてお二方の危惧を年の功か、そんな閉塞状況の出版業界を楽しんでいらっしゃる。仲俣暁生ブログ《陸這記》の予想はほぼ間違いないだろう。

ようするに、「本」はなくならないし、「編集・出版」という仕事へのニーズもなくならないが、そのチャネルを「出版社」(あるいは取次、書店)だけが握りつづける、という時代はもうすぐ終わりである。出版界にもM&Aの波はやってきているが、事態があまり表に出てこないのは、放送業界や通信業界に比べて市場規模が小さいからで、業界全体を脅かすほどの変革の波が訪れるのが後回しになっているだけだ。でもたぶん、あと五年もしたら、「本とコンピュータ」が出ていた頃は、まだしも出版界は平穏だったなぁ、などと思い出されるのではないか。

 団塊の世代がリタイアし始めるのは2007年か、再来年ではないか、何もかも変わり始めるだろう。その波に翻弄されるか、それも良き哉とジジの心境です。あ、そうだ、『季刊・本とコンピュータ』で小熊英二のイケメン表紙に思わず衝動で購入し、読者カードを落書きして投函したら、校正までしてくれて、読者欄?に掲載しておまけに図書券と次号を献本してくれました。その度量の大きさにいい意味で余白のある出版活動を継続していたんだと、羨ましくもなりほとほと感心した思い出があります。ありがとうございました。