速度

 「ノンフィクション文学史」を青土社ですか、武田徹さんに是非とも書いて欲しいです。今回のジャーナリストコースの仕事、『「隔離」という病い』『偽満州国論』『「核」論』の三部作が横軸なら縦軸でしょうか、期待しています。

[…]そうした、いわば本格的なジャーナリズム・クリティックの作業というのは過去に殆どなされていなかったのではないか(唯一の例外が鶴見俊輔さんの『ジャーナリズムの思想』だろう。しかしそのあとにジャーナリズムの思想史は書かれていない。だからこそぼくは思想史を視野に入れたノンフィクション文学史を書きたいと思ったのだ)。
 ジャーナリストの間の一般的な通念として、歴史的な存在としてジャーナリズムを見る必然性が殆ど感じられていなかったのだと思う。個々のファクトは総体として歴史を構成するが、ジャーナリズムは、そのファクトに一対一に対応し」、ファクトが生起した時間と同じ時間を共有するいわば「現在形」しか持たない表現方法だという意識があったのではないか。
 それは違っていて、事実が歴史を形成するように、ジャーナリズムもまた歴史の中にある。だからこそ、ファクトを正しく表現しているかというだけでなく、なぜそう書かれたかを社会の価値観の変化を視野に入れつつ、書かれた対象になる事実の歴史ではなく、ジャーナリズムそのものを時代思潮が濃厚に反映した歴史的存在として批評してゆくことが出来なくてはならない。ジャーナリズムが時局の影響を受けるのは情報管制の具体的な側面だけでない、いつでもジャーナリズムは時代の拘束の中にある。その構図を読み解いてゆくクリティックの作業がジャーナリズムに対する相対的な視座を確立する。
 たとえばこんな比喩はどうだろうか。かつて人力車に揺られながら車内でお手玉をした。今、新幹線の中でお手玉をする。お手玉だけを描く限り違いはない。しかし実は二つのお手玉は200km/h超の速度差の中で遊ばれている。ただ速度だけではない。新幹線に200km/hを超える速度で走らせる文明は新幹線以外にも多くを変えた。それしか遊技がなかった頃のお手玉と、TVゲームやらなにやらが氾濫する中でのお手玉は意味が違っているはずだ。そうした違いを描かなければお手玉遊びを報じたことにはならない。逆に言えば、異なる意味合いを持つ二つのお手玉を同じように報じているのだとすれば、それは報じ方自体が変化しているのだ。そうした変化の位相まで見ることでジャーナリズムの在り方を問うてゆく。
 他にないなら、うちがそういう作業を最初に行うセミナーになれればと思っている。 http://anzenansin.org
武田徹オンライン日記6/9よりー

 昨日、梅田に出て『大航海 No55』と『現代思想 2001,1“ヴィリリオ”』を購入。ヴィリリオの方はウラゲツのHさんのオススメで“速度”について考えたかったのですが、驚いたことに保苅実の特別掲載『アンチ・マイノリティ・ヒストリー』がある。「もうけた!」って言う感じ。
 「新しい政治の創出」というタイトルで市田良彦港千尋ヴィリリオについてとても初心者の僕に興味を倍増する語り口でクロニクルに梗概してくれている。Hさんのコメント欄で言う、≪私は次の機会には「速度」の問題を取り上げようと思っています。ヴィリリオがいみじくも指摘したように、速度は政治や富や権力と結びついています。私は同様に、文化的次元にもこれらの〈速度=政治=富=権力〉問題が結びついていると思うのです。≫が何となくイメージ出来ました。
大航海の方は特集「現代日本思想地図」は面白そうですが、帰りの車中でインタビュー“靖国問題精神分析”をめくったのですが、相変わらずの岸田秀節で良くも悪くも、退屈してしまい、眠ってしまいました。「風の旅人の14号」は梅田ブックファーストで雑誌コーナーメンチン二冊、平台十冊?ほど、ありました。amanomurakumoさんからの情報で舞城王太郎の写真?、名前「野村?」が掲載されている「噂の真相」(梅田ブックファーストでバックナンバーフェアをやっていたのです)がひょっとしてあるかなと、立ち読みするつもりでしたが、残念、ありませんでした。もし、誰か何号に掲載されているかご存知でしたら、教えて下さい。図書館で調べます。