物質的コミュニケーション

現代小説のレッスン (講談社現代新書)

現代小説のレッスン (講談社現代新書)

 石川忠司『現代小説のレッスン』(講談社現代新書)の第二章「保坂和志の描く共同性と『ロープ』」は保坂和志の小説を明晰過ぎるほど明晰な言語で評論してみせてくれる。成程、これがプロの文芸評論家のお仕事なんだとアタマを垂れてしまいました。
石川さんはメタローグレコレコ書評道場の二代目道場主もなさっていて、その投稿レビューアーに対する講評、判定ぶりを時々楽しませてもらっていました。その読み巧者の保坂和志論は見事に一本とられた感じで、思わずまいりましたと声をあげました。
 まず、その一太刀が宮本常一の「村の寄りあい」に近いものとして保坂さんの小説の「日常」を≪そしてこの「生活」に見られる態度、論理をメカニカルかつ一瀉千里に進めるのを拒否し、反対に食い違いや脱線の方を重要視する気の長い態度とは、ある意味で(単一の論理=言語では断じてなくて)複数の「論理」=「言語」を抱え込み、「いや、時間なんていくらでもあるんだからさ」と言わんばかりに暢気にその紛糾や停滞を楽しんでいるに等しく、これは近代人=個人の思考というか、むしろ民俗学者宮本常一の著作にたびたび現れる伝統的な「村の寄りあい」か何かにずっと近い。≫(76)切り開いて見せる。
 だからと言って近代文学特有の内面の発見からくる凝縮された自意識のかったるさを回避して「内言」や「思弁的考察」をカットしてええじゃないかと、ノンシャラなうすらとぼけた平板な地平に着地しようとしているわけでない。ならば、それはバタイユばりの共同体を指向するのか、そうではない、

 「事物(人物)の独立性」と聞くともう、われわれはすぐ互いに通約不可能な関係のたぐいを連想してしまう。こうした連想の圏域では、世間でいう相互理解などといったシロモノは一方的な思い入れを相手の都合も考えずに押しつける身勝手さ、あるいは下手すればファシスト的暴力としてさえ表象されかねない。あのいわゆる「他者の絶対性」というやつである。しかし、もちろんここでは「他者の絶対性」を退けて代りに「相互理解」の重要性をあらためて説くつもりはないし、またジョルジュ・バタイユばりの「共同性を持たない者たちの『共同性』」を持ち出し賛同するつもりだってさらにない。
 バタイユにしたがえば要するにこんな感じなんだろう。例えば恋人同士の恋愛関係の場合、なるほどそこでは強烈な一体感が生じるかも知れないが、生憎この「一体感」は増せば増すほど、当の感情のいわば残余として相手の中で息づく未知で秘められた部分をかえって逆説的に浮き彫りにし、すかさずこの部分を取り込んでもみても、ふたたびさらなる「残余」が発見され、……以下、右のプロセスが延々と続く。
 こうした「どこまで行っても共同性に到達しない者たちの『共同性』は、国民国家みたいな国体なり国民なり同一の理念を共有する、端的に「共同性を持つ」と言っていい者たちの共同性に対する批判にはなり得るだろうが、―しかし「相互理解」にしろ「他者の絶対性」にしろ「共同性を持たない者たちの『共同性』」にしろどれもこれもどいつもこいつも、どうしてコミュニケーションを考えるとき人間的あるいは精神的理解から出発した上でそれを肯定したり否定したりしてしまうのか。どうして分をわきまえず高望みしてしまうのか。どうしてコミュニケーションをもっと身近でありふれている、精神性を欠いた「物質的」共同作業のレベルをモデルに考えようとしないのか。

 石川さんは次に心理学者ウィリアム・ジェイムズを参照して≪恐らくコミュニケーションは、いわゆる「恋人同士」の関係や「友人同士」の関係よりも、石ころが捨て看板に当たったり風が海面に触れて波を起こすような自然の営みの方にずっと近い。≫、
漫画家の西原理恵子が「目が合ったらつきあったも同然、つきあったも同然ならヤッたも同然」とどこかで言ったというが、これ、僕の台詞として、言ったような気もするし、、口には出さないでも心の中でいつも思っているかも(笑い)。
 しかし、「行きずり」のコミュニケーションは「深いコミュニケーション」と次元が違うものであろうか、作者は同じだと言う。両者を区別するのは時間の長さである。≪つまりコミュニケーションにとっては理解や交歓よりも何よりも、その当事者たちがなるべく長時間ただいっしょにいるということの方がはるかに大切なのだ。≫(92)
 あ〜あぁ…、言ってくれるなぁ…、と思う。クサレ縁。だが、時間は最終的にあらゆるものを滅ぼしてしまうのだ。僕も…、あなたも…、ネットに書き込みしている人もいつか…、「ぼく」は死ぬだろう。そして“千人印の歩行器”と言う物質的コミュニケーションの乗り物も消えるだろう。もし消えなければ怪談になってしまう。

…その暴力から限りなく遠いピースフルな作風とは裏腹に物語の展開とは関係を持たぬ物質的「時間」という究極的な「暴力」を敢然と己の作品に導入がゆえ、実は保坂和志こそもっとも索漠で非常な書き手だと言っていいかも知れない。

 そう言えば、京都の講演会で中上健次の話が出て、中上の暴力が横溢する作風と比べて、保坂さんはピースフルですねとの質問に答えて、「いや、僕の方が暴力的かもしれない」と言ったのを思い出しました。中上健次と同年のいまだに小説を書いている友人が「オレの真骨頂は長編にあるんだ」と、短編で評価されたくないという憮然たる想いを暗に訴えるが、中々そのあたりの事情、「お前の小説はノイズを受容するエンタティメント化を真面目に考えるべきだ」との批評は理解されないどころか、誤解されるでしょうね。だから、この石川さんのまとめは友人に読んでもらいたいです。でも彼は頑強にネットを覗こうとしないのです。

 …物理的=伝統的な共同性から切断された、「孤独のうちにある個人」(ベンヤミン)を「産屋」にして近現代の長編小説は生まれ、この「孤独」が極まった地点で「思弁的考察」が現れる。ところが保坂和志の思考は根っから反言語的(複数言語的)・拡散的・反集中的なノイズ=「共同性」に侵されており、自らの思考の十全な表現としては、理論的散文ではなくまさに「小説」ジャンルへの具現化を求めて止まない。さらに保坂の「共同性」とはバラバラであることがそのまま「共同性」に直結する物質的「共同作業」にほかならず、よって保坂の小説は近現代の孤独を踏まえつつ、同時にかっての口承の物語にそなわっていた喜ばしき共同性―読書という「ロープ」を介して読者もそこに加われる―をも「回復」する見事な「エンタティメント」作品になっているわけである。

 友人にとって小説修業は「孤独」を煮詰め熟成させる営為の中でしかありえないと信じている。読み手はいない、書き手の己と、その書き手とまぐあう当事者としての読み手(少なくとも)しかいない。黙って見守るしかないですね。せっかくの石川さんの言葉は彼に届くでしょうか。
参照:石川忠司『現代小説のレッスン』 - Sound and Fury.::メルの本棚。