小説を書いているひとへ

文学とは何か
オンライン書店ビーケーワン:小説の自由
去年、友人から生原稿100枚、「読んでくれ」と送られたのですが、一応読んで、区切りがついてはずなのに、書き直して推敲したと又、電話がきて、「読んでくれ」と言う。
 僕が彼に言いたいことは新刊で発売された保坂和志『小説の自由』の下記に引用したことにほぼ似かよっているので、というより、新潮に連載された『小説をめぐって』を読んで「そうだ、そうだ」とナットクしたことを彼に知ってもらいたく、この連載『小説をめぐって』は図書館で読んでもいいし、保坂和志のHPで月遅れになるが、ネット上で公開されている、「読んでみたら」と薦めているのに、まるっきり関心を持とうとしない。僕としてはせめて下記に引用のようなことが最低限の縛りとしてある。そのことを了解してもらって僕に原稿を送ってくるのだったら、応答出来るのに、いくら説明してもわかろうとしてくれない。文学論ならサルトルの『文学とは何か』で充分だという決着なのです。
投稿を薦めても気が乗らないみたい。ならば、ネット公開したらと言えば、嫌だと言う。彼はアナログ人間なので、このブログに書いても目に触れる可能性は殆どないが、それでもひょっとしたら、とブログアップしましたが、書くことで僕の気持ちの落しどころをつけたい気味もある。サルトルの『文学とは何か』はちゃんと読んでいないのでなんとも言えないが、保坂さんのこの本は僕が読むより、小説を書いている友人や批評家、評論家、書評家の皆さんに読んでもらいたいものです。もろに読者の一人である僕は読みながら「そうだ、そうだ」とぶつぶつ声を発していました。
 身近な人の小説は単なる感想であっても難しい。原稿を目の前にして作品として書き手とは独立した作物として読み手の僕も書き手の彼も同等の距離感でその作品を「ああでもない、こうでもない」とやりとりできたら愉しいと思うのですが、そうはならない。作品に対する感想が書き手そのものに対する批評と受け取られ、僕の目の前から書き手自身が去っていく。そんな事態もあり得る。寂しいことですが仕方がありません。
 鑑識眼がない素人の僕であっても作品のいまだ読んだことのない不穏な作物の発する言葉にならない「何か」を受信する微かな身体反応は出来る。その僕の受信装置を友人は信頼してくれたと思うのですが、それだからこそ、ごまかしはきかない。
 しかし、保坂和志のこの本は非情な本です。勿論、その非情さは保坂和志自身にも向けられている。冷酷なまでに風通しが良い。

 言葉遣いやセンテンスの長短やテンポは、いったん書き上げた段階でいくらでも直すことができるけれど、文章に込められた要素―つまり情景に込められた要素―はそういうわけにはいかない。小説にはいったん書き上げたあとに修正可能な要素と不可能な要素があり、修正不可能な要素が小説世界を作る、というか作者の意図をこえて小説をどこかに連れていく。
 それが小説における表現=現前性で、文学とは抽象化されたものだから、見た目の印象は小説にとっての現前性ではなく、韻文にあるような響きも小説にとっての現前性ではなく、文学によって抽象として入力された言葉が読み手の視覚や聴覚を運動させるときにはじめて現前性が起こる。
 その現前性を持続させて何かを伝えたり考えたりするのが小説だが、何よりもまず現前していることが小説であって、伝えたり考えたり表明したりする方は小説でなくてもできる。
 だから小説は読んでいる時間の中にしかない。音楽は音であり、絵は色と線の集合であって、どちらも言葉とははっきりと別の物質だから、みんな音楽や絵を言葉で伝えられないことを了解しているけれど、小説もまた読みながら感覚が運動する現前性なのだから言葉で伝えることはできない。
 批評家・評論家・書評家の仕事は「読む」ことだと思われているがそれは間違いで、彼ら彼女らの仕事は「書く」ことだ。音楽や絵が言葉で語れないのと同じように、彼ら彼女らの書くものが、自分が読んだ小説と別物にしかなりえないことを承知で、それについて仕事として「書く」。「読むだけでは仕事にならないじゃないか」と言う人がいるかもしれないが仕事にしないで「読む」人がいる。読者とはそういう人たちのことだ。
 批評家・評論家・書評家は、書くことを前提にして読むから、読者として読んだと言えるかどうか疑わしい。書くことを仕事としない読者でも、最近はインターネットで自分だけの書評のサイトを持ったりすることもできるから、その人たちがどこまで読書として読んでいるかもまた疑わしい。書くことが念頭にある場合、ブーレーズの引用にある「仮想」「想像」「回顧」が働きやすく、読みながら現前していることへの注意が弱くなる可能性が考えられる。(73、4頁)

「小説は“動詞”なんだ、“名詞”でない、意味なんかじゃあないんだ」
クリエイターズワールド/執筆前夜保坂和志のインタビュー記事がアップされています。)
こちらの日刊イトイ新聞の保坂和志体験論もえんえんと続いています。
「小説って記号としての“神”、“死”の空隙を埋める作業なのかな…」
 ほぼ日刊イトイ新聞
♪♪渋谷店ブックファーストでランキングです。もう増刷も決定!           Not Found | ブックファースト