インコのインヨウ

 =私に固有でないものがより集まって「私」*1になる。=の8章
 で保坂さんは引用問題について書いていますが、その保坂さんの引用問題(p145)を引用して、いわば、≪他者の言葉を引用して、他者の言葉にそのつど真理として権威を付与するということが、そのまま自分の言葉の真理値を高めているということになる。≫そんな悪癖?のようなものが僕にありますが、
 本書は小説を書きたい人、読書人たちへの小説論にとどまらないで、生活の知恵のような人生訓(こんなことを言うと保坂さんに怒られそうですが…)が散りばめられている。
 勿論、それは小説をめぐっての「迂回」であり、「脇道」なのですが、その保坂さんの迂回が通常の意味で小説を考えない人にとっても「自己啓発書」よりももっともっと、「自己啓発書」でありえるその不思議さで本書を読解する人がいるかもしれない。まあ、そんな「もうひとつの作品像」を解釈する人に僕自身も入らないという自信はありませんが、とても気になり他人事でない一節を又、引用します。人生訓として読んだのです。

 「私」は私が思い込んでいるほど固有な存在ではなく、「私」の中には常套句のような完結したフレーズや機械とほとんど同等の会話ソフトのようなものが組み込まれ渦巻いている。
 痴呆とまで言わないがそろそろ思考力が怪しくなった老人の会話を聞いていると、反応が異常に早い。たいていの場合、相手が言葉を言い終わらないうちに「そうなのよ、うちの嫁もこのあいだ……」などと返答し、その話が終わらないうちにもう一方の老人も「だから、若い人の考えてることはもう私たちにはわからないのよ」と応える、というように矢継ぎ早に会話が応酬されているのだが、そこでは老人たちが何十年間と行ってきた会話の型がやりとりされているだけで、中身の吟味はない。
 以前テレビで見たインコは人間の言葉を自在にしゃべって、飼い主のおばあさんときちんと会話できていたのだが、会話とはインコでもできるような楽器のかけあいのようなもので、会話を起源に持つはずの言葉全般も気分や場の空気に乗せて繰り出される音楽のようなものなのではないか。
 「次の総理大臣は誰になってほしいですか?」
 と街頭インタビューすると、決まって、
 「誰がなっても同じだから」
 という応えが返ってくる。
 これもまた日本人に組み込まれた会話ソフトであって、その人は考えて答えたわけではない。
 しかし、「次の総理大臣」なんていうものを、他人の言葉を使わずに、自分だけの言葉でどうやって考えることができるだろうか。次元の差こそあれ、人間はすべて他人の言葉を操作することを「考える」と称している。 

 こう言うことをさらりと言ってのける保坂和志は怖い人ですね。保坂さんはそんなことは言っていないと言っていますが、小島信夫が「保坂和志は天才!」って思い込んでしまうのもわからなくはない。

*1:筆者注:本文では私の横にある傍点の私は「私」にしました。