淀川沿いで読む「河岸忘日抄」

 淀川でなくセーヌ河らしいですが、僕は桂川、木津川、宇治川天野川、大川、鴨川など、いずれかの川沿いを一人で歩行している日々なのか、作中の「彼」がふと、こちらに乗り移った手触りを感じました。河に係留する船に仮寓して淡々と暮す「彼」の『河岸忘日抄』は一気に読むのは勿体ない。そんな読みは美味しいものが抜け去ってしまう。だから、恐る恐る、蝸牛の歩みで読みました。半酔の状態で堀江敏幸の匂い立つ言葉を浴びる。

 結局、なりゆきまかせのこの船での暮らしは、自暴自棄のあらわれではなく、どこかで意識的に内爆を誘発し、それを慎重にしずめるためのものではないかとさえ彼は思うことがある。いつ、どのようなかたちで内爆が起きたのか、それを数値で示すことは不可能だ。けれども彼のなかには、あきらかにそれが起きた、という感触が残る。何日も彼をベッドにしばりつける風邪や原因不明の疲労は、繰り返されるこれら小規模の内爆の余波であり、臓腑に沈殿し、血のなかに溶け出した塵芥が、身体的な衰弱となって表面化したものではないか。そんな内側の動きを統御していくために不可欠な「きびしいおだやかさ」があってもいいはずだし、またそうした特別なきびしさにたいする世の理解がもっと得られてもいいのではないか。それ以上約分できなくなった怒りの断片を保持することが「あたりまえの感覚」であり、括弧のいらない個性を支えているのだ。(p85,6)

警句、箴言、断章、そして突然、光の数値が切り裂く。気温八度、湿度四十パーセント、南西の風、風力三、気圧一〇二〇ミリバール。元探偵のsleeper(眠り男、まくらぎ)でもある枕木さんが東の国から言葉を届ける。

 そうかもしれないね、と下を向いたまま、酒場のテーブルをはさんで何度もうなずく枕木さんの丸顔を彼は思い浮かべる。顔を合わせるたびに、若かった彼はよくこの「あたりまえの感覚」について、いまでは気恥ずかしいくらいの熱弁をふるったものだ。そういう感覚を小馬鹿にする輩への青くさい怒りのかけらを、分別ある大人にぶつけていたわけである。枕木さんの回答はしばしば彼自身の考えに重なり、ちょっとしたずれはあっても励ましになりうる貴重な養分をふくんでいた。あれはしかし、枕木さん一流の気づかいだったのだろう。当時はまだそこまで考えが及ばなかった。個性的だなんて言葉はね、ほんとうは使いようがないんですよ、と枕木さんは控えめな口調で言うのである。使えば使うほど、陳腐になる。誰にでも当てはまるし、誰にも当てはまらない。だって、ぼくがなんやかや理由をつけて尾行したり聞き込みをしたりしていたひとたちは、男でも女でも、生活の細部のひとつひとつはお話にならないくらい凡庸なんですよ。職種や年齢によって多少のばらつきはあっても、食べているもの、着ている服、友人たちとの会話の中身、観ているテレビ番組、どれをとっても定型を踏んでいるし、予想できる範囲内に収まっている。つまらないといえば、こんなにつまらない人間はいない、と評価を下さざるをえない連中ばかりですからね。依頼する側であれ、される側であれ、行動を細かく記録すればするほど、際だった特徴が消えていくんです。でも、そこから謎なんだなあ、と枕木さんはうつむいて、両手で抱え込んでいた杯を少しだけこちらにずらし、顔をきりりとあげるのだった。謎なんですよ、平々凡々たる細部がひとりの人間の身体に収まっていったとき、やっぱりおなじにはならない。くだらない行為にすら微妙な色のちがいがでる。どこがどう組み合わさって、どんな力が働いたらそうなるのか、ずらりとならんだ無味乾燥な観察記録がちゃんとその人だけの容貌になる。もしそれを個性と呼ぶとしたら、いや、ぼくにはそう呼ぶとしかないから個性と言っておきましょう。話が面白いとか、気が利くとか、そういう見やすい部分とはべつの、身体ぜんたいにまとわりついている空気みたいなものなんですね。だから、きみには個性がない、自分らしさがないなんて、上からものをいうような連中はどうも信用ができない。個性は、他者の似て非なる個性と、静かに反応するんです。そうでなければ、人と人のつきあいがこんなにも面倒くさくて、こんなにもありがたいはずがない。ほら、おまえは自分の言葉を使っていない、個性がないって、よくそういうことを口にするやつがいるでしょう、と枕木さんは目の縁を浅黒く染めながらだんだん饒舌になり、饒舌になってきた自分に気づくと、適切な間をとって視線を杯に落とし、ちょいと言い過ぎましたと詫びを入れてつづけるのだった。言葉は、誰だって出来合いのものを学ぶんですよ、それこそ小学校の教科書に載っているようなものをね。辞書を引けば、意味が載ってる。でも、その出来合いの言葉を、どんな状況でどんなふうに用いるかによって無限の個性が生まれんです。ただし、組合せた結果がどんなに面白くても、なぜそうなったかについては説明がつかないんですよ。(p87)

 長い引用になりました。改行がなく、結構、本書は息継ぎに苦労します。くねくねと粘着力のある文体は不快でなく濃厚な珈琲を啜る快楽がある。時々船を訪問する郵便配達夫は「彼」の珈琲をいつも御馳走になる。本書を読みながら僕も又、珈琲を喫している。でも僕の珈琲はひと様にオススメ出来ない。

つまり、そこで彼が口をはさむ。分解はできても、もう一度組立てなおすことのできないのが、そのひとの個性ってことかな。たぶんね、と枕木さんはうなずいた。