自分の身体は自分のものではない

 蛇頭川、どぶ録さんの「ヒトES細胞とメタ・バイオエシックス 」武田徹ジャーナリストセミナーの報告なんですが、13:30分から19:00まで、ノンストップで白熱のセミナーだったらしい。武田徹オンライン日記の「眼球譚」でも報告が掲載されていますが、講義前に武田さんが補助線として出した思考実験の「生命のくじ引き」を引用紹介します。どのようなことが論じられたのか少しは窺い知ることが出来ます。

 ◆ジョン・ハリス「生存のくじ」(『バイオエシックスの基礎』 )
 臓器移植の技術がたいへん発達したと仮定して ーー強制的臓器提供 くじ (サバイバルロッタリー)制度を提案する。「社会のメンバーのうち健康な人は全員くじを引く」。「くじに当たった人は臓器を移植によってしか助からない病人に提供する」。「そうすれば、一人の健康な人の犠牲によって一人以上の病人が助かるので、現在より多くの人が長生き出来るようになる」。
 思考実験:この「生存のくじ」にいかに反駁するか。ありえる反論とそれへの再反論。
 Objection:くじの当選者が何の罪もないのに臓器と取られ、殺されるのは非人道的だ。
 Response:それを言うなら、臓器の障害で死んでしまう人にも罪はない。同じ罪がない人が多く長生きする方が幸福な社会ではないか。「最大多数の最大幸福」
 O:そんなくじを制度化した社会では安心して生きていられない。
 R:日本で交通事故で死ぬ人は年間1万人もいるが、それでも人びとは交通事故の恐怖にいつも怯えているわけではない。それを思えば臓器移植くじの当たりが1万本以下であれば、日本社会でそれは受容できるのではないか。加えて臓器移植くじのある社会は、臓器の障害を得ても移植が保証され、長生き出来る社会である。それはくじに当たる不安を補ってあまりあるのではないか。
 O:臓器を取られて殺されることと、病気で死んで行くことには違いがある。
 R:生存する権利は誰も平等にもつのではなかったのか。続く…、

 参照小田中直樹bk1書評『自由はどこまで可能か』    
 オンライン書店ビーケーワン:自由はどこまで可能か
 ◆第1部 ヒトES細胞株の樹立と医学応用−なぜ万能細胞とよばれるのか−京都大学再生医科学研究所 中辻憲夫教授
 ◆第2部東京海洋大学 小松美彦教授「バイオエシックス」から「メタ・バイオエシックス」へ脳死・臓器移植問題を事例に
 この前振りだけでは何のことか???はてなになりますが、ichikinさんは基礎テキストとして下記のネット文献を紹介してくれています。問題点の概略がある程度わかります。♪『ES細胞とは』小松美彦『「生命・倫理・学」〜「自己決定論」を考える』
 非常に重要な問題が横たわっていますね。身近な問題としては「自己決定論」の欺瞞性ですね。一体自分の身体は自己所有権の範疇に入るであろうか、そんな疑問です。かってフェミニスト達が戦いのツールとして利用した「自己決定論」は、むしろ今では戦いの相手であった行政側、医療側が「自己決定」を自ら取り入れた医療システムの構築を図っている。ナチスの優生法にしたところで、自己決定という裸の個人を根底に置いた法構成をしている。むしろ、フェミニスト達は、「自分の身体は自分のものではない」ということをアナウンスすべきであろう。この辺は僕も賛同する。裸の個人なんてありえない、いつも他者との関係性のなかで、括弧つきの「個人」として現れる。当然、自殺も許されない、人を殺すことが許されないのと同じことです。このことは、僕の中ではっきりと決着はついている。少なくとも僕の中でニヒリズムから脱却できている部分は「自分の身体は自分のものではない」ということです。 
 脳死の問題に関しては森岡正博さんは「脳死」でなく「脳死の人」なんだという人の関係性を科学と宗教の狭間で「いのち」について考えているみたいですが、森岡さんの生命学に関しては僕より詳しい人が沢山いらっしゃいますので、このセミナーとは別にお教えを願いたいものです。