男という病い

 梅田ガーデンシネマで『ヒトラー』を観ました。ぴぴさんがシネマ日記でレビューアップしていますね。

狂信者はどこか一本スジの通った魅力を持っている。信じるもののために命を惜しまないという姿は崇高ですらある。この映画でも、一身を賭して祖国防衛に立ち上がる少年義勇兵たちの勇ましいこと。敗戦を目前にして地下壕で酒びたりになる将校よりも、最期まで毅然として戦う軍人たちのほうがずっと好感がもてる。これは困ったことだ。

 とまあ、ぴぴさんは困っていながら、無償の「公」に生きる男達(女もいるけれど)にエロスを感じている。僕にだって多少そのような部分がある。でも、その濃度が物凄く低くなったことは事実です。帰りの電車中で読んだ小熊英二対談集『対話の回路』で、小熊英二の『<民主>と<愛国>』をめぐって上野千鶴子とやりあうのですが、上野さんは、そんな「公」は【男という病い】と断裁する。

上野 江藤淳を読むときの違和感もそれです。そんな「治者の責任」なぞ誰もあんたに頼んだわけじゃあるめえが、っていう(笑)。「公」という言語を介してしか自我の安定を確保できないのが「男という病」だと、この本を読んでもつくづく思いましたね。
小熊 その点はまったく賛成です。だから、この本は「一種の男性学」である、と言っているわけです。
上野 どこかで私はケツをまくりたい気持ちがある。「公」などなくたって生きていける、と。敗戦後の青空の下で、国が滅びても人は生き延びるということを、人びとは経験したのではなかったのか、と言いたい気持ちが読みながら湧き上がってくるのです。
小熊 それもよくわかります。ですが、先ほどから述べているように、ある局面では自分も「ナショナリスト」たらざるをえない。つまり「国の政治」を語らざるをえない。それを語る時に、自分を含めて、いまの同時代の言論が貧しい言葉しか持っていない。だから、もう少し風通しのいい言葉のつくり方を考えたいと思ったわけです。
上野 わかりました。でも、なんでこんなことに血道をあげるのかという違和感を、私は抑えることができない。そして、小熊さんも同じ感覚を共有するとしたら、あなたは「男」ではあっても、「公」をめぐる言説から離脱していくような「女・子ども」の感性を持っている「男の子」だったということでしょうか(笑)。

 最近、よく思うのですが、去勢の日々がどの程度因果関係になっているのか、検討がつきませんが、僕自身、「女・子ども」の感性濃度が高まっている気がします。だからなのか、上野千鶴子さんの言い分が抵抗なく腑に落ちる。

小熊 それを「男の子」と表現するならばね。私は「男の子」と聞くと、どうしても「成熟した大人の男になりたい」と言いつづけた江藤淳のような人が思い浮かびます。私に言わせれば、「男」よりも「男の子」のほうが、「公」を語りたがると思いますよ(笑)。
上野 なるほど。あなたが言うように、すべての「公」をめぐる言説がナショナリズムに回収されてしまうとするならば、そんなものはなくても生きていけるという思いは、ついに最後まで言説化されることなく思想にすらなりえないのでしょうか。

 言説化されるはずだ、そう思います。国家を超えて、公を超えて、同時に個を越えて、「自分の身体は自分のものではない」という他者性を承認する不断の作業の中で<世界>を信じる驚きを生きる拠点にする。「オレがいるここが、宇宙の中心でもある」、ここが「公」でもあるのだ。恐らく、「自分の身体は自分のものである」との資本主義を支える私的所有概念からは、そんな思想は生み出せ得ない。すべて、俗情するナショナリズムに回収されるであろう。

小熊 先ほどから述べているように、国家や民族の単位でない「公」だってありますから、そんなことはないでしょう。単位を設けない「公」だって、ありうるでしょうね。私が六十年安保の章で書こうと思ったことは、単位の名前がつけられない「公」が発生してしまった状態ですから。それを部分的に描いて対比させながら、「国家」や「民族」という単位で語られる「公」の言説の混乱を、とりあえずリセットしておきたかったんです。
上野 最近、公共性をめぐる議論がブームなんですが、公共性と聞く度に私は、いかがわしさを感じてしまう。こういう感覚は「女・子ども」の感覚だと思って、大事にしたいと私は思っています。(p308〜9)

 男という病の処方箋はあるのであろうか?
 その前に観た映画『DEARフランキーもシネマ日記』でアップされていますが、まさに、この映画は「女・子ども」が主人公ですね、しかし、ぴぴさんの感想文によると、おばちゃん連中がケイタイするし、お喋りするはで、映画に集中できなかったと書いている。僕の時は隣のオヤジは泣いていました。上野さんの言う「男という病い」はかような家族映画にもシンクロする。「公」だけで男を語るのはちょいと乱暴ですね。
 参照:『人間の命』
    http://www.bioethics21.org/document/020922_komatsu.html