日常を響かせる音楽

ONJO-Otomo Yoshihide’s New Jazz Orchestra
 ミュージシャン大友良英コラムをchirosaさんが前日のコメント欄で紹介してくれたのですが、「男という病」につながるコラムだと思うので、ここに一部引用しながら紹介します。但し、二年前のものです。『戦争と日常』です。自分の音楽を信じている人の言葉は人の心に小波をたてますね。

[…]鶴見俊輔が3月24日付けの朝日新聞夕刊の文化欄に書いていたこともわたしは好きです。反戦運動の根拠を、かつて男性的な人間が振りかざしてきたような生活に根を持っていない「理論」に求めるのではなく、「自分が殺されたくない」に求めるほうがいい…という内容ですが、そこから少しだけ引用します。
(日本の)敗戦当夜、食事をする気力もなくなった男性は多くいた。しかし夕食をととのえない女性がいただろうか。他の日と同じく、女性は、食事をととのえた。この無言の姿勢の中に、平和運動の根がある。
 食事をつくるのは女性…というところにひっかかるなかれ。ここに書かれているのは半世紀以上も前の、男女の役割が分かれていた時代の話ですから。ただ前述のわたしの友人はまさに、ここでいう女性が食事をつくっていたように音楽を作ろうとしているんだと思います。毎日の食卓は、レトランのように派手やかではないけれど、うまいもんだったりするように、自分だけが好きな1000枚しか売れないようなCDを作ることは、彼にとっては毎日の食卓だったりするような気がします。そう考えると、そもそも何百万枚もCDを売ったりするようなシステムや努力そのものが、非常にわたしには暴力的なものに思えてきます。[…]
⇒♪『大友良英・英文HP』『日本語HP』より

とくにこの言葉は名言ですね、
「他の日と同じく、女性は、食事をととのえた。この無言の姿勢の中に、平和運動の根がある。」、僕は女性ではないけれど、出来るだけ食事の支度をしようとしていますが、老母は僕の料理は乱暴だと言う。味付けひとつにしても“相手のために”という繊細さに欠けるというわけです。心がこもっていないっていうわけ。「食べればいい」っていうわけのものでない。僕は結構アレンジをするのです。それで、時々、とんでもない味になる場合がある。料理はそんな冒険をしてはいけないとうるさいのです。ちゃんと、人のやっていることを見て、その通りにすればよい、まあ、舌は保守的ですからね…。