コバンザメの蕨野行

 コバンザメって背びれが変化した吸盤でサメや大きな魚、浦島太郎が乗ったような海亀や船底にぴったんこ寄生して旅行するタダ乗り名人ですが、食用にしないのですね。“小説の中の「食」を読む”で屁爆弾さんが食について書いている。レイモンド・カーヴァーの『ささやかだけれど役に立つこと』は僕の大好きな短篇の一つですが職人はパンでもって子を亡くした錯乱の母親に生きる力を与える。
 コバンザメも生きるために寄生はやむを得ないのですが、最期は誰かのために食べてもらう落とし前ぐらいはつけて欲しいものですね。内田樹ブログの“哀愁のポスト・フェミニズム”フェミニズムに群がったコバンザメ、今も群がっているコバンザメについてシリアスに分析してみせてくれていますが、leleleさんは“現代思想はどうなんでしょう?”という問いをブログで発している。同じような状況でしょう。
 別に政界、論壇、文壇、画壇といった特殊な業界に限らず、メディア、会社であれ、組織があればコバンザメは寄生する。それは仕方がないことだ。問題はコバンザメを食用にしないことだ。勿論、へそ曲りな人が工夫をして食用にするぶんには構わない。でもそんな耐性がないのに無垢に食いついてしまう人は気をつけた方がよい。少なくとも源である上野千鶴子はリスペクト出来るサメであってコバンザメではないと思う。まあ、内田さんは上野さんに違った評価をしているみたいですが、上野さんのやったことは評価できることも沢山あったはずです。少なくともリアルタイムで火中の栗を拾いながら精一杯やったことは間違いない。恐らく、思想家の思想とその思想家の○○主義者とはズレがある。そんなことは当たり前でコバンザメも知っているんだ。でも○○主義者の汚れがないと運動は起きない。山は動かないのも事実でしょう。ただ、山が動いた後は、コバンザメは総退陣するか、その汚染をクリーニングするために食べられても可とする器があれば、コバンザメは大家のサメを超えて龍のように幻獣の仲間いりが出来る。
 問題はコバンザメ志向の人びとが年々増えていることではないでしょうか、節操がなく何にでも食いついて、でも自分が突かれることに嫌悪して小判を掻き集めよとするいじましさは、それを生きるための逞しさと言って苦笑いするしかないのでしょうか?ただ、そのようなコバンザメがこの世にうようよと繁殖しているんだというリティラシーはより磨いてゆきたいと思う。
 何十年を振り返ってベルギー在住のshohojiさんが屁爆弾さんの“小説の中の「食」を読む”のコメントでこんなことを書いている。

大学時代大好きで読んでいた「じゃりんこチエ」で、おばあちゃんが、「人間の不幸は、寒い、ひもじい、死にたいの順番でやってくる」と言って、屋台にラーメンを食べに連れて行くシーンがあって、今でもこの言葉忘れられない。

 コバンザメのように礼節を放擲しても人は「ひもじい」から逃れようとする。それは弾劾出来ない。闇屋とコバンザメとは終戦直後の時代背景と今の時代との関連で検証しなければいけないのでしょうが、時々闇米は食いたくないと言って餓死した裁判官のような賢者も出てきますね。
 明後日が敬老の日ということでもないのですが、今、村田喜代子の『蕨野行』を読んでいます。映画にもなりましたが、舞台である押伏村には六十歳を超えると蕨野という丘へ捨てられる掟があるのです。還暦を迎えて二番目の通過儀礼っていう趣もある。春、夏、秋、を生き延びれば、冬入り前に村に帰ることが出来るのです。(下の注に書いたように物語の中で棄老されたババの嫁も僕と同じように騙されて秋になれば、生き残ったジジババたちは村に帰されるのかと思ったのでした。)*1
庄屋であれ、小作人であれ、蕨野の小屋がけで集団生活をする。まあ、今の時代で言えば、ホームレス体験ですか、中々工夫されたシステムです。今の時代に応用出来なくはない。例えば、60歳から65歳の間、一年間、海外なり日本でボランティア活動をする。そして国会議員であろうと、文化人であろうと、サラーリーマン、芸能人、主婦、ホームレスであろうと例外はなく適用年齢になれば、病人は除いてみんな集団生活をする。そうすれば、コバンザメも少しは逞しいサメになれるかもしれない。」*2
 参照:映画「蕨野行」の製作と上映を支援する会

*1:そんな甘いものではありませんでした。完全な棄老です。ババは嫁に言う。「野入りの別れに、おめえが子だちのごとく泣くなれば、二度と帰らぬことを教えるのもむごきなり。されば団右衛門や伊作、テラ等にもくれぐれも言い含め、秋になればもどると騙して別れた。まことはワラビ野には帰途の道は無えなりよ」僕も騙されました。最後まで本を読まないで書くとかような勘違いをします。でもその勘違いから削除された考えが生まれたので良しとします。

*2:僕の真意は『蕨野行』を読了せぬ前に棄老伝説とは違う道行を夢想した、もう一つの通過儀礼の考えを気に入っています。