世代交代のバトン

 向井亜紀のように「私」の遺伝子でなく、村田喜代子の『蕨野行』の“生まれ変わり”でなく、「世代交代の継承」は敬老の日に相応しい話ですね。これから引用するのは「群像10月号=評論特集=」で石川忠司保坂和志が対談した『小説よ、世界を矮小化するな』からです。この対談は小説家と評論家とのズレを忌憚なく言い合いながら気持ちのいいバトルを行っている。対談ならではの言葉を石川さんは保坂さんから引き出して、トークセッションはやっぱしいいなぁと思いました。
 このブログやぴぴさんところで関西地区で対談、鼎談のトークバトルを誰かがやって欲しいなぁと書きましたが、そんなに言うならお前たちが企画すればとのもっともな提案がありましたが、具体的に考えると結構大変ですね、ポプラビーチ田口久美子の『書店日記』が更新となりタイミングよく東京国際ブックフェアでの講師体験を書いている。一時間の話で入場料が5000円だったとのこと。企画会社が間に入って版元は表に出ていないみたいだが、テーマは「書店の売場つくり」で、講師の田口さん自身、私だったらそんな大金を払ってまで聞かないよと書いている。
 一体入場者数はどれぐらいだったのでしょうか、講演会なら一人ですがトークセッションなら二人と割高になります。やはり版元におんぶにだっこしてもらわないと500円〜1000円の入場料設定は無理ですね。5000円ならコンサートに行ってしまう。でも、保坂和志六本木ヒルズでやった講演会は入場料が5000円でした。出版社の販促でなく保坂さんの話を聞きたいとの企画で実現されたものでこの価格設定は常識の線なんでしょう。田口さんの5000円は裏方に徹している人の意識では「高い!」というのが正直な反応だと思う。今日は敬老の日です。

石川 リアリティの話に戻りますが、世界の先行性をリアルに実感するってのは、自分の有限性を骨身にしみて知らされることでしょう?ならば世界を「肯定」する小説とは、つまり小説のあるべき姿とは、結局世代の移り変わりというか、世代交代を描く小説になっていかざるを得ないと思うんですよ……。
保坂 その話の前に押さえておかなきゃいけないのは、『現代小説のレッスン』の中で、村上春樹の作品世界が閉じられているという話を盛んにしているよね。それは、比喩というのは世界に向かわずに、言語の中で次から次に移っていくことだからなんだよね。言語の中で安定しているということなんだよね。つまりリアリティから遠ざかる。
 だから比喩を使っていたら世界は開示されない、きっと。ただラカン派の人たちにいわせれば、人間の思考というのはすべて比喩だとかということになるみたいなんで、僕がどれだけそれをいったところで、「保坂のいっている世界は全部、言語によるものだよ」っていう人もいるかもしれないけれども、それはそれぞれのアプローチなんじゃないかと思う。言語をいかに世界と結びつけようかと思っている人が何人かいて、そんなことは思わずに、作品としてうまく完成させればいいと思っているだけの人もたくさんいる。でも、作品として破綻しているとしても言語と世界をいかに結びつけるかということを忘れたら小説は大人が真面目に読むものじゃなくなると思うから、その中で、僕のしているアプローチの一つは、比喩は使わないということになるんだよね。比喩を使っていたら言語の優位に自分でだまされちゃう、ということ。それで、世代交代の話に戻ると。
石川 いや、リアリティの現場でしみじみ感じられる世界の先行性とは、実は世界と自分とが本当に別物であって、自分が死んでも世界は続くという寂しさでしょう。ならばそんな現場では、自分の使命とは自分が幸福になったり自分の力で何かを為し遂げるとかでなく、何かバトンのようなものを未来の誰かに渡すことだってのも、やはりしみじみ実感されるんじゃないですか。人間を含めあらゆる生命は子孫を残す。しかしそれは本能によるのではなく、リアリティに対する敬意からです。そうすると、小説の王道とは個人の悩みとか喜びとか怒りとか閉塞感とか、その手の世知辛い問題ではなくて、即物的に世代の移り変わりを描くことに尽きると思うんですよ。
保坂 この間、山古志村で、地震の翌年である今年、ただ一人稲作を始めたおじいさんのドキュメンタリーを深夜にやっていたのね。その人は、田んぼを守る、土地を守るのが自分の仕事だからといってやってるの。バトンの受け渡ししか考えていない。あの人を見ていてぱっとわかったんだけど、自我とか主体の問題が出てきたのは、やっぱり都市生活者なんだよね。
 バトンの受け渡しだと思う、僕も。でも、土地のない人間、土地に密着して生きていない人間にとって、そのバトンが何なのかということなんだよ。現に僕も石川さんも子供をつくっていないわけだし、でも子供をつくったって、それはバトンの受け渡しだとは、もうみんな思っていないわけじゃない。子育てが終わったら、また次の自分の時間が戻ってくるとしか思っていない。小説が近代市民社会でできたということが本当だとしたら、やっぱり近代小説は一回終わらないとだめなんだよね。山古志村のおじいさんにとっての土地のようなリアルなものが何なのか、小説家はまだだれも発見していない。その問題だと思うんだよね。(214頁)

 小説の話なんだけれど、保坂さんは常に全体を語ろうとしているから、小説論にとどまらず、“生き方そのもの”の説教になってしまう。本人は説教を物凄く嫌っているみたいですが、どうしても僕にとっては有り難い説教に聞こえてしまい、今日の敬老の日に相応しいと思って引用してしまいました。
 この有り難いことに関して面白い考察をお二人はしています。それは本誌で確認して下さい