モッタイナイ!生ゴミ

 先日は初めて市の清掃工場見学に行ってまいりました。清掃に限らず生産にしろ工場の現場って外から見るぶんには結構楽しめるもんです。川沿いにありすぐ傍には山田池公園という広大な公園があります。そんなに遠くないところに関西外語大学の学舎を譲り受けて資料がまだ充分棚を埋め尽くさないほど巨大な市の中央図書館が出来たのですが、そこの広い児童書コーナーにichikinさんが執筆協力している「資源の本」(全五巻 岩崎書店)があったので借りてきました。その「リサイクル資源を考える」によると、昔の暮らしはどうだったかと、1955年(昭和30年)ころと今とを対比しているのですが、55年はまさに55年体制が稼動して高度成長に殆どみんなで突き進んで行ったスタートラインでもある。
 左は左の役割で右は右の役割で暗黙の了解のうちに冷戦時代をむしろ巧みにアクセルとブレーキ操作して世界の富を吸収するシステムを作り上げた年でもある。僕は小学高学年でしたね。その前哨として朝鮮戦争(1950年〜1953年)があったわけです。もう小学生だったので、鉄屑を拾って屑屋さんに持って行って小遣い稼ぎをした思い出があります。小学校の蛇口などが狙われ被害にあった事例も記憶にある。そんな時代背景で中学生になったのですが、今にも新しい時代が素晴しい社会が実現するみたいな政治を語る教師がいましたね。オヤジが購読していた『文藝春秋』をきっちりと読んでいました。でも、『文藝春秋』を読んでいたのは中学生の頃だけです。おかしな話です。世の中の景気が良くなるにつれて生家の商売は傾き、とうとう60年の夏に倒産、オヤジも『文藝春秋』どころではなくなるわけ。個人史においても1955年は重要な年ですね。
 本書によると55年に一人が一日に使う水の量はおよそ20リットル。それが今では300リットルと15倍です。その水ぶくれ度は唖然とする。「鋳掛け屋」さんも「かけつぎ屋」さんも、修理や回収をする職業の人が沢山いましたね。大阪に引越しした時も今里でしたが汲み取り式で定期的に肥屋さんがうんこやおしっこを回収してくれました。そしてそれらは肥料として使われていたのかな?公設市場はあってもスーパーはまだ登場していなくて食料品は買い物カゴを持って出かけ、買った魚は古新聞で包み、時には新聞はお尻を拭くのにも使いました。新聞は読むだけでなく多種多様な使い方で調法しました。醤油やお酒はびんを持って行き中身だけを買い、豆腐屋さんも自転車で街をまわっていました。
 着るものは古着になっても継ぎ当てをしたり、「洗い張り」をしたり、最後は雑巾でゴミとして出ることは考えられなかった。今、現在住んでいるわが市で一番の問題点は発砲スチロールのトレーにパックされた状態の食料品(生ゴミ)です。大阪府全体の平均値に比べてもこの割合が高いのです。買って、冷蔵庫の奥にしまいこんで賞味期限が切れる、それで、そのまんまゴミとして捨てる。勿体ない話です。多少の賞味期限が切れて味はともかく滅多なことで食中毒になることはありません。辺見庸の『もの食う人びと』を読んで見てください。賞味期限の数字でなく、毒見をしたり、匂ってみたりして判断すればいいのです。僕は賞味期限が切れた商品が店頭にあると大概半額だとか、それ以下なので喜んで買いますよ。それでも食中毒の経験はないですね(笑)。
 だからでもないのですが、今年、市のごみ減量推進員に選ばれました。コンビニ協会の賞味期限食品を見直す方針の発足と歩調を合わせて、手付かずで捨てられる食品を救済するシステムを何とか作りたいですね。「モッタイナイ」とか、「食べ物を残すのはお天道様に申しわけない」とか、せめてそんな最低限のモラルは身につけたいです。まあ、僕の場合、外食しても食べ物を残すことはしないですね、これは身についています。同居の老母は食べ残しは絶対、捨てない、外食でも持って帰れるなら容器に入れてもらいます。兎に角、ゴミ減量の第一歩は生ゴミを減らすことです。大根の葉っぱも使えるし、魚を食べ終わった時は熱いお湯をかけて骨をしゃぶる、美味しいですよ!