彼岸の墓参

書くことの秘儀
 墓参りに行ってきました。墓石に鳥の糞で黄色く汚れているのを削ぎ落とす。墓の周りも雑草でむさ苦しい。はさみでは思うように作業が捗らない。鎌を持ってくるのでした。何とか綺麗にして花を生け灯明をあげ線香の香りを嗅ぐ。今日も暑く、汗だくになってTシャツが肌に気持ち悪くまとわりつく。ここは岡にあり、街が眺望できる。目の前の41階の高層マンションを見下ろし淀川の川の光を見やる。ここは男山の近くです。川向こうは山崎の戦いで有名な天王山。墓地の背側に洞ヶ峠。この辺りは起伏があり古戦場が色々とある。源氏の氏神石清水八幡宮」もすぐ近くで、僕の一万歩コースのエリアの一つです。
 彼岸の日だからということでもないのですが、日野啓三の『書くことの秘儀』を再読する。緊張を強いられる本です。一字一句に日野さんの言葉に対する呪としか言い様のない「強い心的エネルギー」を感じる。

 人間の情熱を最も激しくかき立てるものは、恐怖である。後期旧石器時代の狩猟民たちを、それぞれの神話という想像的な≪かたち≫(物語であるとともに説明の体系)へと駆り立てたのは、?未来形の恐怖?である。
 動詞の未来形(中国語のように副詞によって未来を表す言語もある)の成立によって、人々は現にいま身体に知覚している以上の事物と想念の、先方に連なる時間の意識をもった。それは完成体を思い浮かべて石器の材石を薄く剥ぎ取る技術を洗練させ、数日後の動物の行動を予測してワナを仕掛けることを可能にした。だが予測能力の向上と同時に、将来に起こるべきことへの期待と不安と恐怖の想像力も飛躍的に高まったのだ。何よりもわが身に、次の瞬間起こるかもしれない死の恐怖も。
 死体の認知でなく死そのものの実感と意識は、動詞の未来形とともに生まれ、さらに「死」という概念名詞の結晶によって確立されたであろう。それとともに墓や葬礼が始まり、霊魂と他界(死後の世界)の観念が芽生え、死霊への恐れ、それを避ける様々の呪術、さらに少し後になっては死者を他界に安らかに導くシャーマンという霊的案内者が生まれ……つまり原初の宗教と霊的絵画(具象的な表象から、同心円や十字のような抽象的な記号もある)と聖なる神話が創り出された。
 人類の進化史において、数百万年前の「直立歩行」に継ぐ大変革、大進化が、数万年前の「死の自覚」だ、と私は考えている。来るべき、そして生命ある何ものも免れ難い「死」の意識化によって、人間の「生」も意識化され、現実化されたのだ。悲劇的になったと言ってもいい。?生きている?ということを、あるいは死んだようでしかないということを、不断に自覚するようになり、そして死ぬのは自分だから、?自己?という感覚も痛切になっていっただろう。
 人類は自分の人生という現実を自覚的に生きる≪人間≫に成り始めて、まだ数万年しか経っていない。厳密には現在も≪人間≫への途上にある。≪人間≫は自然的実体、生物的概念ではない。死の意識を土台にして、神話が創り出した想像上の理念である。いや不断に様々な神話(科学も特殊な神話の一形式であるーー宇宙ビッグバン理論、大統一理論、進化論など)によって、死の恐怖ーー虚無の深淵の縁に支えられ続けねばならない、とても不安定な、ほとんど無根拠な信念、意志、期待、祈りかもしれない。(p125〜6)