天からの贈物

 かって『スタンド・バイ・ミー』について語ったことがある。おしょうさんが遊雲君、想君たちと一緒にこの映画を見た時の感動と恥じらいをコメントしてくれている。ベン・E・キングのこの名曲は時々聴きたくなる。shohojiさん一家のスコットランド旅行で深い森の中に彷徨った折りの体験を読んでいたら、この映画の印象的なシーンを思い出しました。

[……]無事村にたどり着いたときは、もう真っ暗、泊まるところも食べるものもありませんでしたけど、生きてたどり着いたというだけで感謝でしたから、森の中、車中泊。翌朝早く次の地点へ動いて腹ごしらえしようと、4時頃動き始めましたが、森で鹿の群れに出会いました。群れのリーダーと思われる、立派な角を持った牡鹿の姿が、夜が明けようとしている森の中で美しかったこと。鹿を神の使いとした、伝説や絵画などがあるのももっともだなあと思うほど、美しかったです。[……]

 勝手に一部コピペしました。僕はコメントで牡鹿のことを書きましたが、スティーヴン・キングの『スタンド・バイ・ミー』では雌鹿ですね。映像を引用出来ませんが、山田順子訳の新潮文庫から引用してみます。森の中をレールが走っている。夜明け。

 いったいどれぐらいの時間、レールに腰をおろして、昨日の夜音もなく空を染めていった紫色が、やはり音もなく薄れていくのをながめていたのか、わたしにはわからない。どちらにしろ、尻が不満を述べはじめたほど長い時間だったのは確かだ。立ちあがろうとして右手を見ると、十ヤードも離れていない線路の枕木の上に、雌鹿が一頭立っていた。
 [中略]わたしは動かなかった。動きたいと思っても、動けなかっただろう。鹿の目は褐色ではなく、黒、灰色がかった黒だーー宝石店のショウ・ウィンドウで、バックに敷いてあるベルベットのようだった。小さな耳はすりきれたスエード。雌鹿はおだやかにわたしをみつめ、わずかにくびをかしげた。わたしに好奇心をもったのではないかとと思えるしぐさだった。彼女の目に映ったのは、眠れるカカシのようにくるくると渦を巻いたり、ぴんと突っ立った髪に、裾を折り返したジーンズと、肘をつくろったカーキ色のシャツ、当時のいきがったスタイルどおりにシャツの衿をくいと立てたかっこうの少年だ。わたしが見ているものは、ある種の天からの贈物、おそろしいほどに無造作に与えれられたなにかだった。
 わたしと鹿は長いことじっとみつめあっていた……長い時間だったと思う。そして彼女はわたしに背を向け、のんきに白い切り尾をひょいひょいと動かしながら、土手の反対側におりた。草をみつけ、むしゃむしゃ食べている。わたしは信じられなかった。鹿が草を食いはじめたのだ。彼女はわたしをふり返りもしなかったし、その必要もなかった。わたしは完全に凍りついていたからだ。

 少年にとって雌鹿との出会いは、最高の一番すがすがしい部分であった。

たとえば、初めてベトナムのブッシュに踏みこんだ日、わたしたちのいた空き地に、片手で鼻をおおった男がやってきて、その手をどかしてみると、鼻が撃たれてなくなっているのがわかったとき。わたしたちのいちばん末の息子が水頭症かもしれない(ありがたいことに、あとで、単に頭のサイズが大きすぎるだけとわかったが)と医者に言われたとき。母が死ぬ前の長く、気も狂わんばかりの一週間。そういうとき、わたしはふと気づくと、あの朝にもどっていて、すりきれたスエードのような耳、白い斑点のあった尻尾のことを考えている。

 本書はキングの自伝的色彩の強い作品である。このシーンは作者にとって長い間、秘め事として人にも喋りもせず、書きもしなかった。なににもまして重要だということは、口に出して言うことは極めて難しい、そうでしょう。だから、彼は≪こうして書いてしまうと、たいしたことではなかったような、取るに足りないつまらないことだったような、そんな気がしていることも書いておくべきだろう。≫と自分の思いを抑制する。