事実より関係性

 ある人がブログ内で「事実よりも関係性を大切にする」とコメントしていました。恐らくこのことは折に触れ考え続け、今も進行中の問いですが、「事実より関係性を大切にする」ことは僕の生き方の身の丈に合ったものだという自覚はあります。とても大切なことなのに、自己防衛のためか、事実(歴史的事実と言われているもの)を水戸黄門の印籠みたいに使って、「控えろう!」って、それで議論の決着をつけようとする人が一番、やっかいで、嫌です。
 その歴史的事実を自分をも含めた関係性の中に取り込むと、当然、野次馬でいられず少なくとも当事者としての悩みが生じる。
 歴史的事実を強弁する人に限って、相手を攻撃して自分を高見に押し上げてケロリとしている。そんな単なるストレス解消か、知識のひけらかしに僕はもう付き合いたくないです(笑い)。
 まずは、関係性ですよ、その悩みの中からおぼろげに浮かび上がってくるのが仮構としての事実であって、その仮の事実が現実の場で運動として接続すれば、それは少なくともその場においてリアルなもの、事実となる。
 「全体小説」って言うときの「全体」はそのような関係性を含んだもので、単なる事実とされるものをパッチワークで当て嵌めたものではない。知識だけでは全体小説は書けない。
 掲示板のやりとりで時々熱くなって噛み合わない議論にお目にかかる。そういう場合は往々にして歴史的事実の知識の量のやりとりで、まるでどちらが体重が重いかを競争している笑劇が多い。お互いに「お前は歴史を知らない」で決着をつけようとする。そんなのは単なる知の自己慰安か、権力闘争の政争であろう。そんな地平ではコミットしたくないとしたら、無視するしかない。
 だがそんな人がもし、ある歴史的事実に対して一人の男(女)としてどのような関係性を切り結ぶか、歴史的事実と言われるものが縦軸ならば、空間としての磁場の設定の中で彼、彼女の生き様が見えるなら、傾聴に値する。見えないなら、いくら歴史的事実を声高に語っても誰も説得出来ないであろう。
 例え同じ歴史的事実でも関係性の場で違った色を持つことがあり得る。自省を込めて思う。僕より知識の量を多く持っている人は沢山いるが、それでも、彼らを軽蔑出来るとしたら、彼らがそのような関係性の中で生きようとしない単なる自意識肥大の知の所有者でしかないからだ。
 参照:「ホンマ、アホみたいに歩くんや、一晩中」