しみじみ「内在系」、メンヘラーって?

kuriyamakouji2005-12-03

 『限界の思考』は面白いんだが中々前へ進まない。気になるテクニカル・タームについて一々考えていると脱線するのです。でも結構、宮台さんなりにサービスはしてくれている。例えば、

言い方を変えると、日々の糧に困らず平和に生きられれば幸せになれるタイプを「内在系」の実存と呼び、それだけでは足らず<世界>や自分の究極の意味を考えてしまうタイプを「超越系」の実存と呼ぶと、「超越系」の連中はじつに「アブナイ」けれど、その手の連中は社会から絶対にいなくならないから、上手に善導する必要があるということです。
 僕は、中学高校や大学を通じてフランクフルターにハマり、そのあと卒業したつもりでいました。ところが、八十年代なかばから性のフィールドワークにかかわり、それにつづいて宗教を調べるようになって、「全体性は断念できない(から安堵するしかない)」というフラクフルターの基本的発想の深さを、しみじみと考えるようになりました。(188〜9頁)

 僕は内分泌療法のお蔭で今は「内在系」の実存を生きていますね。喜ぶべきか哀しむべきか、でも心身のバランスの良さを実感する日乗に間違いないです。前立腺癌になった余禄かなと感謝しています。でもホルモンのバランスが時として崩れるのか、目眩がしますが、目眩によって「超越系」のアブナイ橋を渡らないで済んでいるのかもしれないですね。でも、こんな東浩紀みたいな工学的な補助線というか、薬というか、そういう挿入で宮台さんの社会科学に対する問題の解決を図ろうとするのは応用の利かない特殊だという認識はあります。まあ、逆に「超越系」のアブナイトリップに薬を使用する人もいるみたいですが、僕の薬は「内在系」に向かう。

 九十年代のなかば、ブルセラ援助交際の女子高校生らを世間に「紹介」していた頃、僕は彼女たちの姿に、全体性を断念しつつ――それどころかそんなものについて考えたこともないまま――高度な流動性を乗りこなす理想的存在を見いだしていました。流動性をモノともせず、「内在系」の実存を生きる「オバちゃん的」存在ですね。
 だからオウム真理教地下鉄サリン事件が起こった直後、「オウム(超越系)死してブルセラ(内在系)残る」という、認知的(予測的)でもあり規範的(べき論)でもある命題を掲げた『終わりなき日常を生きろ』という書物を、世に問うことになったんです。でも予測ははずれ、世の中は元ブルセラを含めてメンヘラーだらけになりました。

 メンヘラー?僕は最初本書でメンヘラーと書かれたとき、メルヘン系と読んでしまったのです。この頁でなくもっと前の方ですが、世の中みんなメルヘンで癒しを求めだしたという文脈です。でも何か違う、それで、検索したら沢山ヒットしました。でも、益々わからなくなりました。<偽メンヘル>なんて言うのもあるのですね。取り合えず、僕が参照したものを紹介:♪http://air.ap.teacup.com/sabu/13.htmlモヒカンを隠して生きてきた日記 - モヒカン族うんこぶろぐ。
 理解できましたか?大体イメージは捉まえることは出来ましたが、宮台さんの言うように世の中、メンヘラーだらけなんですか?

『絶望 断念 福音 映画』のあとがきに書いたけど、過剰流動性下での入れ替え可能化にもかかわらず、不健全な「超越系」に向かわずに健全な「内在系」の実存を人は容易に保ち得るのだ、という想定には、無理があったんですね。結局、僕は「全体性は断念できない」「超越系は世の中に大規模に生きつづける」という、フランクフルターの想定に戻りました。

 その超越系の、全体性の回路を国民国家へと流し込まないためにヘタレ左翼、ヘタレ右翼の路線を踏まないで「あえて」する宮台さんの戦略は難解であるけれど刺激的です。
 「内在系」の実存を生きるオジサンブログですなぁ、ここは…。願いは平和に幸せに生きること、平和ボケが世界中隈なく行き渡ることを祈念します。物凄く困難な祈りですね。平和ボケに疚しさを感じる必要はない、憎むとしたら戦争ボケのヤカラです。そこを勘違いしないで、今後の宮台さんを追いかけます。