宮台真司×大澤真幸のトークイベントを乞う

宮台真司コムで、興味ある長文の前口上がアップされていました。『丸激本の第三弾(IT篇)』がまもなく春秋社から出版されるのです。北田暁大との対談集『限界の思考』(双風舎)とも繫がっているので、以下を又引用しました。

宮台 [……]/依存的なものよりも自立的なものを賞賛する態度は、、表現(=伝達)よりも表出(=発露)を賞賛する態度につながり、人間的理性よりもミメーシス(=模倣・感染)を賞賛する態度につながり、表現を支える論理よりも表出の連鎖(=叫びが叫びを呼ぶミメーシス)を支える根(=共同性)を賞賛する態度につながり、左翼と右翼の対立につながります。
 その意味で、ポストモダン思想はもともと右翼ツールです。しかし、闘争の1960年代が終わって行き場を失ったバカ左翼が、近代の恩恵にただ乗りしながら近代を批判するという、カルスタ同様の非論理的な営みに流用した結果、自在にズレるアリスティッポス的な闊達さが忘れられ、ズラすこと(=退却)へと強迫されるディオゲネス的なヘタレが量産されます。(p431)

 少し、わかりにくいかもしれませんが、北田暁大が自由のアイロニーと強迫的なアイロニーとして前者を糸井重里、後者を川崎徹と対照しています。何となくわかりますね。
 それから、『波状言論S改』(青土社)で大澤真幸が宮台真司に疑念を表明していますが、ここで宮台さんは辛辣な応答をしていますね。

 「自己の内発性」と「共同体への信頼」を前提としつつ、自在にコミットしては自在に退却する態度。僕が「あえて」という言葉で推奨しているのは、そういうアリスティッポス的な態度です。それをオウム信者や2ちゃん信者のごとき「アイロニカルな没入」と混同するとは、大澤真幸さんもヤキがまわったものです。無教養もはなはだしいな。
 依存でなく自立を、韜晦ではなく諧謔を、オブセッシブではなく参入離脱自由なアイロニズムを、というのは、ぶっちゃけていえば「つまらないから、面白く生きよう」ということでもある。面白く生きるためには、全体性へと―<世界>の根源的未規定性へと―開かれている必要がある。この「開かれ」を忘れた瞬間、頽落してつまらなくなる。(p431)

 下のエントリーでトークイベントのことを書きましたが、先日の東京芸大では茂木健一郎×保坂和志ということにならなかったので、次回の楽しみとして実現して欲しいですね。緊急の要望は大澤真幸×宮台真司です。実現の可能性はどうなんでしょうか、