クオリア/出来事/廃墟

最後の個体

 茂木健一郎氏の半年前の『クオリア日記』での『思考の補助線』はとても大切な基本線だと思う。月刊ちくま411号(p28〜30)に掲載されたものですが、「世界をその中心で述べるもの」に向かうという探求は自然科学者であれ、思想家であれ、メイン通りは違っても、行こうとする場所は同じでしょう。自然科学の卓越でも思想の卓越でも足らない謙虚さは必要であろう、両者の間に思考の補助線を引かなければ全体の構図は見えない、そこから、茂木さんのクオリアへの冒険旅行は始ったのでしょう。
 浅田彰氏らしい人のコメントが挿入することで、かぜたびさんは編集ブログで連日、そのことによる石投げで悩み、そして揺らぎをブログアップしていますが、僕自身もお二人のやりとりを聞くことで僕なりに整理できたことも多々あったし、ブログではこんなことも出来るんだと言う新しい発見もありました。『浅田彰氏との「出来事」の総括に変えて』『出来事の到来と芸術体験』を再読すると、クオリアと出来事が重なる。そして杉本博司についての浅田彰氏の言説がかぜたびさんの言うように「反物質」として作用する揺れは僕自身感じることが出来る。丁度、kingさんが、『廃墟探索記』をアップしていたので、『TEAM廃墟』の写真をロムすると、良くも悪くも僕の感性に強く訴えるものがある。「世界の終わり」はひょっとして救済の一歩ではないか、「廃墟」に抗し切れる「出来事」はあるのか?クオリアは世界に満ちており、ただそれを自分の裡に発見する脳と身体とまるごと感知する受容器を磨くことでしか世界への入り口はないのか、去年、榎本香菜子は「最後の個体」で大きな賞をもらったが、あの黄昏、そして夜明けを信じるしか生きる術はないのでしょうか。