とんとんとんからりの隣組でなく隣びと

 まっちゃんさんの狂人日記のエントリーで僕の方にトラバしてくれましたが、読んでいるに従って「相対主義」と先日読んだ養老孟司の『無思想の発見』の「無思想の思想」とどう違うのだろうかと考えました。似ているようで違う。よく例証として言われることは外国で日本人が安易に無宗教を答えると相手は怖い人と警戒するらしい。積極的に「無宗教の思想」を持っている敵だと思われる。そうではなくて、すべての宗教を等距離で相対主義的に受け入れ、「鰯の頭も信心から」で、イスラムもキリストも仏教も信じたい人が信じ、そして自分の信仰に深くコミットしている人をリスペクトするのは当然の振る舞いで、その基盤が揺るぎないものとして自信があれば、多少のノイズも気にはならないであろう。そんな風に宗教を無思想的に考えているんだろうと思う。「無思想の思想」にもアナーキズムと言った確信犯的なものはない。
 もうひとつよくわからないのですが、「世間」を規範とするということなんでしょう。そうすると、保守反動のように聞こえてしまいますが、「思想がないという思想がある」という、真空原理を肯定することでしょう。色即是空、空即是色なんでしょう。どうも養老さんの思想は般若心経の262文字に近しいものらしい。僕のような宗教にあまり関心のないものでも、一応、朝起きると仏壇に手を合わせ般若心経の冒頭だけでも口でもごもご言ってしまう。

 こういう文化のなかで、自前でなにかを考えようとすると、厄介なことになる。考えるのはともかく自分でやればいいのだが、説明するのが厄介である。「表現されなきゃ、思想じゃない」といわれるからと、懸命に表現してみると、/「それは哲学だろ」/といわれてしまう。いったん「哲学だ」となったら、その先はもう聞いてはもらえない。聞いてくれる人がないではないが、そういう人は世間の変わり者である。それなら「まともな世間」に訴えようがない。/なぜそうなるのかというなら、「日本には思想はない」、あるいはむしろ「世間に思想はない」という立派な思想が、その世間にすでに存在するからである。(中略)「思想はない」という思想なんだから、文字にならない。そのかわりに「真空」がある。
 そういう世間で、ある考え方を主張すると、私が日本人であるかぎり、基本的には無視される。なぜなら、私が日本人だということは世間に属しているということで、世間に属しているということは、「世間という思想」を暗黙に保持するということだからである。その世間の思想とは「思想なんてない」というものだから、私の考えが思想に近ければ近いほど、無視されるという結論になる。世間の思想にいささかなりとも反する思想を持つことは許されないからである。ただし「借り物」なら許される。なぜならそれは本質的には「自分の思想ではない」からで、自分の思想でない以上は、自分の責任ではないからである。少なくとも日本人の責任でないことは明瞭である。だから日本の世間は、思想といえば、外来の思想で埋め尽くされるのである。(p94)

 しかし、外来の思想であれ宗教であれ、下にエントリーした「隣人とは誰か」で「サマリア人」のことを書きましたが、クリスチャンであろうがなかろうが、「無宗教の日本人」であろうが、「善きサマリア人」になり得るし、なり得ない。その時が到来するまでわからない、「縁」という言葉が一番似つかわしいのかもしれないが、ひょっとして僕だって「善きサマリア人」になるかも知れない。
 多分、それは思想、宗教といったものではなく、身体的な反応だと思う。その人の痛みがわかるかどうか、予測がつかない、痛みに共振すれば自然と身体が反応して「善きサマリア人」になるであろう。ならなかったなら、それは仕方がない、僕はそういう人間だということを甘んじて受ける。「〜せねばならない」という当為で説教しようとは思わない。
 ただ、自分に向かって「善きサマリア人になれたらいいなあ…」という語りかけはしようと思う。ここは大滝秀次の口調で「隣人とか他者なんてもんは、普通に人が好きならば、見つかるもんだ、サマリア人になってなれる。」
 大義名分や思想で与えられる概念は隣組を呼び出すかもしれないが、隣人を呼び出さないと思うんだ。