14歳の海岸通り

kuriyamakouji2006-03-16

ALWAYS 三丁目の夕日 豪華版 [DVD]
 やっと、西岸良平の『三丁目の夕日』(小学館ビッグコミック連載中)の映画『ALWAYS 三丁目の夕日』を見ました。CG処理がここまできたのかと、そのことに一番驚きましたね、ストーリーのいいとこ取りの昭和33年の解釈が実際の昭和33年とズレ(僕は14歳であった。)が間違いなくありつつも、逆にCG処理がそのズレをリアリティを高める方向に作動したのか、僕はいつの間にか、昭和33年の広島県呉市の海岸通りに降り立っていましたね。
 映画は東京タワーが建設中で、映画の終りに完成する。僕の生家は乾物問屋でしたが、映画の鈴木オートと殆ど変わらない二階家でした。商売道具にマツダの三輪トラックもありました。二階の屋根は物干し台になっており、暗い少年(僕のこと・笑)は誰とも喋らず「戦艦大和」を生んだ海を眺めていました。当時、大和を築造したスキルが継承されたのか、呉の造船業は活況を呈し、世界一の大型タンカーが港に浮かんでおりました。街は徐々に変貌しつつあったのです。
 だが、生家は商売が上手く行かず、倒産するわけですが、その寸前の昭和33年度なのです。最早戦後が終わったといわれ、岸信介が政権を担っていた。34年には皇太子の結婚式があり、ミッチーブームで映画では力道山のテレビ放映がエピソードとして取り上げられていましたが、ご成婚の放映でテレビは爆発的に売れたと思う。
 でも、生家はテレビどころではなかった。翌年、倒産したのです。僕は地元の高校の二年生になっていましたが、やむなく大阪の高校に転校です。そしてそのドサクサの1960年に安保闘争があり、樺美智子の不幸があり、そして新安保条約が強行採決される。政権は池田隼人にバトンタッチされ、所得倍増がスタート。日本社会の目標は【経済成長】と左も右も結局は合意したのです。バブル崩壊までそれが続く。まあ、生家はそのような路線のために潰れたのですが、オヤジは一から会社勤めでスタート出来た。受け皿はあったのです。働く場所は沢山あったのです。
 この映画の昭和33年とは微妙な位置だと思う。東京の下町であり、転校した大阪の町であり、呉の町であっても事情は似ている。保守合同55年体制が起動して岸政権ががっしりと政治を行っていた。安保闘争の国民運動に発展したきな臭さはまだはっきりと顕在化していない、そんな政治の季節が到来する寸前の凪ですか、そんな空気であったと思う。この映画の風景はその当時の呉の中通りと似通っている。市電も走っていました。ただ、僕は東京タワーの変わりに海に浮かぶ夕日に映えた巨大タンカーを飽かず眺めやっていたのです。
 次の市民ホールの映画の上映は『男たちの大和/YAMATO』です。