あえて世代で頭を整理しました。      

 今、宿題を与えられて『「国語」観の変遷』を読んでいます。面白いのですが、なかなか前へ進まない。脱線ばかりしています。本書の262頁に紹介された高田瑞穂の『新釈現代文』(1959年刊)に関して興味をそそる記述があります。『追跡』、『内面的運動感覚』というキーワードは僕の中に引っかかるのです。
 この本は大学受験用の参考書として小西甚一の『古文研究法』と並んでロングセラーとなった本なのでお世話になった方は多いと思う。この本はいまだにbk1に絶賛の書評が投稿されている。僕もお世話になっているはずですが、記憶にない、まあ、教科書そのものに、記憶が薄れているので、僕の所為なのですが…。高田さんの本はもう絶版になっていますね。上の紀伊国屋のデータではアップされている。
 桝井英人さんのこの力作を読んでいると、昔、授業で使われた教科書をもう一度読んでみたくなるから不思議です。小、中、高の学校で採用された教科書を年度別、学校名を付記して分類整理した図書館はあるのでしょうか、あるとしたら、覗いてみたいものです。教科書についてこんなことを書いているブログがありました。『義務教育と読書』です。僕の教科書を介した読書経験は武者小路実篤のような白樺派になってしまう。こちらのブロガーのように泉鏡花小林秀雄に触れる契機になったことは、幸福な体験ですね、小林秀雄は受験で取り上げる頻度はものすごく高かったわけですが、僕らの頃はそんなことはなかったと思う。
 泉鏡花小林秀雄を愛読するのは学校を卒業してからです。貧しい読書体験でした。
 まあ、受験勉強をほとんどしなくて、某高校の文芸部員であったのですが、高校生を巻き込んだ60年安保闘争のアフターですよ。舟木一夫の『高校三年生』は東京オリンピックが始まる寸前の1963年でしょう。61年の高校三年生はやり場のない鬱屈さを持っていた。まあ、多分により個人的な僕の所為でもあったのですが、その年の秋に生まれて始めて原稿用紙50枚の短編を高校文芸誌のために書いて掲載されました。でも、その文芸誌はもう見あたりませんね、残念無念。それだけ長い時が流れたわけです。
 とにかく、そんなエピソードを思いやりながら読んでいるので、時間がかかって仕方がありません。読み終わったら感想をbk1およびここにアップするつもりです。
 共通一次試験は1979年でしょう。恐らく著者は1962年生まれなので、最初の頃の共通一次試験世代だと思います。『サブカルチャー』を戦後史の中で位置づけて批評活動をしている大塚英志は1958年生まれでそれ以前でしょう。でも、1953年生まれの『ハイスクール1968』の四方田犬彦が体験した「高校紛争」とも縁がない。ちょうど、全共闘世代と共通一次世代の狭間に位置してたけくまメモによれば、たけくまさんは1960年生まれだから自称「おたく第一世代」で夏目房之介(1950年)、いしかわじゅん(1961年)は「プレおたく世代」らしい。多分、大塚さんも「おたく第一世代」の先端に位置しながら、兄貴世代を評論して『「彼女たち」の連合赤軍』をものにしたのであろう。
 僕は奇妙に一回り下の1950年代後半から1960年代前半の人たち、例えば武田徹宮台真司、大沢真幸、保坂和志、のテキストを意識せず結構、愛読していると、数年前から気づいているのですが、それは僕の世代ではまだ珍しい「サブカル」好みの性かもしれないが、最近、気がついたことで僕より三歳年上の片岡義男さんは「サブカル」ライターともいえるのではないか、その片岡さんが前日エントリーしたように僕と同じ街で少年時代を過ごして、オーストラリア兵のジープを追いかけて、「ギブ・ミー・チョコレート」(又は「チョコレート・ワン・サービス」)って言ったという。恐らくそのような体験とサブカルとどこかでつながっているような気がしますね。でも、やはり同じ街で過ごした田中小実昌は一兵士となって戦場に出かけましたから、根っこが片岡義男と違うのでしょう。
 かような世代論で考察すると大事なものがどんどんこぼれ落ちるのですが、そのことを承知した上であえて整理してみました。本書を又、読み続けます。
◆しかし、竹熊さんの【団塊の世代とプレおたく世代とおたく第一世代: たけくまメモ】・「おたく老後問題」はあり得る具体案ですね、もうじき2007年です。
古文研究法「国語力」観の変遷―戦後国語教育を通してハイスクール1968網状言論F改―ポストモダン・オタク・セクシュアリティ