目に見えない国語の力

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 前々日のエントリーのコメントで黒猫さんが田舎の学校のことを話していましたが、恐らく僕の生家と瀬戸内海を挟んだ正岡子規の愛媛だと思いますが、保守政治家の話で、そんな想像からか香川県出身の大平正芳のことを思い出し、確かその地盤を譲った発明学会の豊原豊雄さんはまだご存命だろうかと、気になりグーグル検索したら一件、ヒットしてしまった。
 そしてよく見たら僕のカキコでpataさんのエントリー吉本隆明の『中学生のための社会科』に飛んでいってしまった。そしてpataさんの『宮澤喜一回顧録』のコメントを読んで是非とも読みたいと書いていたのに、いまだに読んでいない、吉本さんの本もそうです。備忘録として画像をアップします。そう言えば、ブックオフ石橋湛山の『湛山回想』岩波文庫)を手に入れたんだなぁ…、これも積ん読になっている。読まなくては…。
 大平さんも、湛山もものすごい読書家で政治家以前に教養人ですが、今はそのような政治家が少なくなりましたね、まあ、小泉さんはオペラ、歌舞伎、そして時々演説に古典を引用するとかして、教養人らしく振る舞っていますが、実際はどうなんでしょうか、そうだ!エルビス・プレスリーだ、小泉さんはプレスリーと誕生日が同じなんだって、1942年生まれか、片岡義男とほとんど同年ですね。横須賀の街は呉の街によく似ていましたね。小泉さんも少年時代、進駐軍ジープを追いかけたのであろうか、僕と同年か、ちょいと上の連中は「プレスリー」だったのです。ビートルズはず〜と後ですから、そうやってロックの目から見れば、小泉さんは同世代に近い空気を吸っていたことになるのですが、あの冷たさは僕の中にもあるのかな…。
 武田徹さんがブログのwinny(3/19)で《第二次大戦後、日米会話手帳が売れたのは、自分たちが占領地で日本語を強制してきたからだし・・・・。》と嘆いているが、僕らの世代(小泉さんも入れて)は「チョコレート・ワン・サービス」ですからね、僕自身、小学校時代、ひどい言語障害に陥って国語の音読 が出来なかった。一言も発することが出来なかった。それが、中学校に入学して英語のリーディングで救われたのです。教師に褒められ、英語の音読を通して自信がつき何とかしゃべるようになった。この気持ちなんだ、英語を読むように日本語も読むという相対化をはかれば何らトラブルはおきない。そんな倒錯を僕の中で処理したと思う。イメージとして僕自身が外人で日本語を読む、又は「オレは記憶喪失に陥った火星人なんだ」と思うことで、意識と身体の分離を計ったと思う。でも、そんなごまかしは継続しない。
 桝井英人の『「国語力」観の変遷』(渓水社)の「国語力」はそんなごまかしを足蹴りする存在そのものの力なのであろう。それは手段化、目的化出来得ない「目に見えない」ものでしょう。そのような「目に見えない」ものに身を任すことはとても勇気のいることだと思う。この歳になってやっと少しずつ「身を任す勇気」を持てるようになった気がします。僕の日本語は凸凹で迷走するかもしれないが、それでいいんだと、外国語をしゃべるように流暢に日本語をしゃべることは不幸な事なんだという、そんな問いを自分に投げかけています。と言っても、僕は外国語をしゃべれるわけではありません。念のため…。
 小学校の段階で英語を教科として取り上げるか否かが論議されていますが、少なくともあの昭和20年代に英語が小学校で採択されていたなら、僕の小学生時代に於いて無様な立ち往生はなかったでしょう。そのことが良かったか悪かったか、少なくとも今の視点で言えることは言葉は個の実存に曝されないと、身体に痛みとして刻印されないと、普遍性を手に入れることは出来ない。言葉が言葉であるということの根拠は英語であれ、韓国語であれ、そのような普遍性であるだろう、金鶴泳の『凍える口』の苦悩は永遠に問われ続ける問いであろう。ただ、「言葉の力」を信じるしかない。それしか、僕らには頼るものがないのだ。

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